おことわり

 2025年より、メインの記事の掲載場所をnoteに変更しました。
 こちらでも更新は可能な限り行いますが、バックアップとしての運用となります。(なお、過去の記事については、これまで通り公開しています)
 場所は変わりますが、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

|

2025.01.05

明治に生きる新撰組――原田・斎藤・山崎は誠を貫けるか!? 矢野隆『至誠の残滓』

 主役になることは少ないものの、新撰組では人気者の一人である原田左之助。本作は、幕末を生き延びていた原田をはじめ、明治の世を生きる新撰組隊士三人を描くハードボイルドタッチの物語です。原田、斎藤一、そして山崎烝(!)――もがきながらもそれぞれの誠を求める三人の向かう先は!?

 東京の片隅にある古物屋「詮偽堂」――その主人・松山勝の正体は、幕末に上野で戦死したはずの元新撰組十番組組長・原田左之助。病身の妻を抱える原田は、高波梓の名でやはり密かに生き延びていた山崎烝と時に酒を酌み交わしながら、静かに暮らしていたのですが――そこにもう一人の元新撰組隊士が現れます。
 それは、かつて三番組組長であり、今は警官となっている藤田五郎こと斎藤一。新撰組時代から斎藤と反りの合わなかった原田は邪険に扱おうとしますが、妻の薬代のため、長州閥と結んで悪事を働く士族の調査を引き受けることに……


 この表題作から始まる本作は、原田・山崎・斎藤の三人が主人公を務める全七話の連作集として構成されています。明治の新撰組といえば、今では即、斎藤一が連想される(次点で永倉新八)わけですが、その斎藤だけでなく、原田と山崎が登場するというのがユニークな点です。
 原田といえば、上野戦争で戦死せずに生き延び、満州に渡って馬賊となったという巷説のある人物だけに、明治以降に登場する作品は皆無ではないのですが――山崎は非常に珍しいといえます。彼については死亡の記録がしっかり残っているだけに、実は生きていたというのは難しいのですが、そこは本作独自の理由を設定している点が面白いところです。

 さて、こうして明治の世に姿を現した新撰組隊士三人ですが、それぞれ実に「らしい」キャラクターとして描かれているのが嬉しくなります。
 難しいことを考えずに直情径行で突っ込む原田、冷徹で非情に見えて内に熱い信念を持つ斎藤、荒事は苦手だけれども監察で鍛えた人間観察眼を持つ山崎――それぞれのキャラクターは決して斬新というわけではありませんが、それだけに納得のいく言動には、新撰組ファンであれば必ずや満足できるでしょう。


 しかし、本作の舞台となる明治11年から18年においては、彼らが活躍した時代は既に過去のものです。それどころか、幕末での新撰組に恨みを持つ者が新政府にも少なくない状況で、かつての自分の名を名乗ることもできず(特に死んだはずの二人は)、彼らは新たな名でそれぞれの生活を営んでいるのです。

 そんな中で、果たして彼らはかつての誠の志を抱いて、生きていくことができるのか――本作はそれを鋭く問いかけるのです。

 特に中盤以降、斎藤そして山崎は、ある人物に絡め取られてその走狗として生きることを余儀なくされます。その人物とは山縣有朋――長州出身の軍閥の首魁ともいうべき男であり、後には元老として絶大な権力を振るった存在です。
 当然というべきか、この時代を描くフィクションでは悪役になることの多い山縣ですが、本作においてもそれは同様――斎藤たちを操り、数々の陰謀を巡らせる、何を考えているのか山崎にすら読ませない不気味な存在として、作中に君臨するのです。

 この明治政府の闇の象徴ともいうべき存在を前にしては、所詮は一人の人間である斎藤も山崎も、無力な存在に過ぎません。それでも己の中の誠と折り合いをつけ、この時代を生き延びようとする彼らの戦いは何ともドライかつ重く、それが本作のハードボイルドな空気を形作っています。

 果たしてこの山縣の闇に、原田までもが飲み込まれてしまうのか。そして彼らはかつての誠を失い、走狗として死ぬまで戦い続けることになるのか……
 それでも山縣が企む最後の陰謀に対して意地を見せる三人ですが――そんな緊迫感溢れる終盤において、読者は本作を誰が書いたのか、改めて思い知らされることになります。

 作者はデビュー作の『蛇衆』以来、様々な形で「戦う者」「戦い続ける者」を描いてきました。
 見ようによってはやり過ぎに感じられるかもしれない本作のクライマックスは、しかしそんな作者のまさしく真骨頂。あまりにも作者らしい展開であり、そしてその先に待ち受ける結末とともに、新撰組ファン、そして作者のファンとしては、思わず笑顔で頷いてしまうのです。

 たとえ時代が変わっても、一度は己を殺すことになっても、決して消えない、変わらない――そんな熱い想いを持った男を描いた快作です。

|

2025.01.04

幻の中国服の美女を追った先に 波津彬子『レディシノワズリ』

 人と人以外の存在の関わりを儚く美しく描いてきた波津彬子が、英国を舞台とした作品の一つが本作――曰く付きの中国の美術品があるところに現れる謎の美女、レディ・シノワズリと、彼女を追いかける青年ウィリアムの姿を中心に描かれる連作シリーズです。

 年の離れたいとこで道楽者・チャールズのアリバイ作りのため、彼と共に訪れた屋敷で、中国服をまとった金髪碧眼の美女と出会ったウィリアム少年。しかし、その屋敷でウィリアムがチャールズから離れていた間に、チャールズが以前付き合っていたバレリーナが殺されるという事件が発生します。

 元々、亡くなった祖父のコレクションを処分したいという相談に乗るために件の屋敷を訪れ、中国服の美女と会ったというチャールズ。殺人の嫌疑を晴らすため、アリバイ証言を求めて美女を再び訪ねたチャールズですが――しかし屋敷はもぬけの殻だったのです。

 自分で確かめるために再び屋敷を訪れたウィリアムの前に姿を現したあの美女。そこでウィリアムが屋敷の中で大きな動物の尻尾を見たと告げた途端、彼女は奇妙な態度を取ります。彼女の助言で真犯人を見つけたウィリアムですが、そこには数々の謎が残ります。そして「レディ・シノワズリ」と名付けた彼女にもう一度会うことが、彼の人生の目標となって……


 かくして、ウィリアムが少年期から青年期に至るまで、一度どころか幾度も謎のレディ・シノワズリに出会い、美術品にまつわる奇妙な事件に遭遇する様を中心に、本作は展開していきます。
 もちろんレディに出会うのはウィリアムだけではありません。彼の学友であるリンジーやその母、同じ骨董クラブの才媛・ガートルードやその父といった様々な人々の前にも、彼女は謎めいた姿を現すのです。

 「シノワズリ」とは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行したヨーロッパで流行した中国趣味の美術様式のことを指します。なるほど、明らかに東洋人ではないにもかかわらず中国服に身を包んだ彼女には、相応しい呼び名かもしれません。
 しかし、彼女は明らかに只者ではない存在です。冒頭のエピソードのように、しばしば中国の美術品を用いた詐欺に関わったと思えば、幻のように姿を消してしまう――いや、それどころか、ウィリアムのようにごく一部の人間しか見ることができない、ハクという白い虎を連れ、さらに何よりも、ウィリアムがいつ出会う時も、いやそのはるか以前から、彼女の姿は変わらぬままなのですから。

 美術品にまつわる、どこまで人間なのかわからぬ美貌の存在――というと、どこかの骨董品店の少年を思い出しますが、本作のレディは、そちらよりも遥かに謎めいていて、ガードの高い存在です。これではウィリアムならずとも、彼女が何者なのか、その後を追いたくなってしまう――という時点で、我々は彼女の掌の上で踊らされているのでしょう。


 さて本作は、最終話を除けば、すべてのエピソードでレディと関わり合う人物(あるいは家系)の名が冠されたエピソードが展開していきますが、やがてその中で、彼女の目的が朧気に見えてくることになります。それは、中国にまつわる何らかの美術品――彼女は自分がしばしば扱うような中国趣味の偽物ではなく、「本物」の品物を探しているようなのです。

 これ以上相応しい名はないと感じられるサブタイトルの最終話「別れ」において、ウィリアムがレディから聞かされた言葉――それは必ずしも我々が望んだ答えではないかもしれません。しかし、舞台となっていた1930年代(というのはここで初めて語られたように思いますが)という一つの区切りの時代が終わる時には、相応しいものであったと感じられます。

 「その後」のえもいわれぬ余韻も含め、まさしく佳品と呼ぶべき作品といってよいでしょう。

|

敵は異国の笛と、へのへのもへじの怪!? 田中啓文『篠笛五人娘 十手笛おみく捕物帳 三』

 時は江戸時代、所は大坂。日夜喧しい月面町で、不思議な十手笛を振るうこの娘。飴売り娘にして女目明しのおみく――だが人は彼女を「十手笛おみく」と呼ぶ! というわけで、時代伝奇捕物帳シリーズの第三弾は、異国の笛の音と共に現れるへのへのもへじの怪との対決をはじめとする全二話+αです。

 目明しの父をある事件で喪った後、笛で客寄せをする飴売りと、先祖伝来の仏像の中から現れた十手笛を手にした目明しという二足のわらじで活躍してきたおみく。父の代からの手下であるおっと清八とちょかの喜六、老同心・江面可児之進、そして十手笛に封じられていた謎の精霊・垣内光左衛門の力を借りて、おみくは様々な事件を解決してきました。

 そんな彼女が今回挑むのは、大坂の夜を騒がす奇怪な化け物騒動です。十尺もあるだんだら模様の大ウナギ、何もないところから現れる目がデメキンのように突き出したトカゲ、そして肌が疥癬のようなものに覆われたへのへのもへじ――いくらなんでも突飛すぎる話と一笑に付されそうですが、目撃者は多く、おみくは可児之進から対応を命じられます。

 やる気の出ないまま調べを始めたおみくですが、その最中に偶然異国の笛を拾います。吹こうとすると何故か「嫌な気分」になるその笛が、唐物問屋・宝岩堂の蔵から盗み出されたものと知るおみく。しかし、宝岩堂の主人はそれを届け出なかったばかりか、店に雇われた専任の笛吹きが変死を遂げていたというではありませんか。
 化け物騒動のほうは手下に調べを任せ、宝岩堂と笛の謎を追うおみくですが、二つの事件は関わりがあるどころか、事態は垣内光左衛門までも巻き込んでいくことに……

 表題作である第一話は、そんな摩訶不思議な事件が描かれます。本シリーズが捕物帖にして伝奇時代小説でもあるのは、第一に十手笛にお助け精霊が宿っている点によりますが、これはとりもなおさず、描かれる事件が尋常な存在が相手ではない(こともある)ことを意味するといってもよいでしょう。
 その点、本作では冒頭である存在のモノローグが描かれ、続くプロローグでは二人組の盗人(この片割れの元相撲取りがまた非常に愉快なキャラなのですが、それはさておき)が、宝岩堂の蔵で恐怖の体験を――という導入部から、大いに「それっぽさ」を醸し出しているのがたまりません。
 その一方で、単純な化け物騒動では終わらないのも作者らしいところで、大坂の夜を騒がす化け物の正体を知った時には、思わず天を仰いでしまうこと請け合いです。

 しかし本作で描かれるのはそれだけではありません。サブタイトルの「篠笛五人娘」は、普段は飴売りで篠笛を吹くおみくと、彼女の奏でる笛の音に惹かれて弟子入りした四人の女の子たちを指します。
 粗末な篠笛ながら楽しく笛を吹き鳴らす彼女たちですが――しかし作中に登場する能楽師の笛方・坂巻七五郎は、能管に比べれば篠笛などただの遊びであり、笛方には男しか就けぬと憎々しげに言い放つのです。

 ここで描かれるおみくと七五郎の対比は、楽しみのための笛と権威・権力のための笛の対比であり、その関係性は劇中で思わぬ形でリプライズされることになります。
 楽器は楽しむためにあってはいけないのか、笛を吹くことに男女の違いがあるのか――その答えを描く結末は、理想主義的ではあるものの、こちらを笑顔にしてくれる温かさがあります。


 さて、本書にはこの他に、中編「刀を抜かないのはなぜ?」と短編「一九郎親分捕物帳」が収録されています。

 前者は、暗愚な藩主に取り入って藩政を壟断する城代家老を排除せんと血盟を結んだ、次席家老と大坂留守居役派の剣豪たちが次々と何者かに襲撃を受け、刀も抜かずに正面から倒された謎を主軸とした物語です。
 この謎解きが主軸になるのはもちろんですが(そこに巻き込まれるのが、いつも頓珍漢な推理ばかりのご隠居・謎解き甚兵衛と、おみくのライバル目明し・十変舎一九郎なのが非常に愉快)、しかしそこに、昨今を思わせる混沌とした政治を巡る状況を重ね合わせているようにも感じられるのが興味深いところです。

 また、後者はタイトルのとおり、普段は憎々しげに振る舞う一九郎が主人公という異色作。いわゆる「悪い岡っ引き」で、やりすぎて江戸に居られなくなった一九郎が、江戸へ戻れるかを賭けて、職人だった父が残した寄木細工に挑むという一編です。
 そこにおみくも絡んで謎解き勝負になるのですが――その謎解き部分はちょっとどうかなあと思うものの、一九郎の株がちょっとだけ上がる結末の後味は爽やかです。


 というわけで、今回もバラエティに富んだ内容の「十手笛おみく」。新春の賑やかで楽しい気分の時に読むのにぴったりな一冊でした。

|

2025.01.02

新年最初の映画に『ゴールデンカムイ』を

 故あって新年は祝えないのですが、一年の初めらしく賑やかであまり難しいことを考えないで済む(そして記事のネタになる)ものを観たい――と考えて思い出したのが、まだ観ていなかった映画版『ゴールデンカムイ』。丁度続編も発表されたことだしと思って見ましたが、想像以上の作品でした。

 『ゴールデンカムイ』といえば、明治時代の北海道を舞台に、アイヌの黄金を巡って不死身の風来坊とアイヌの少女、生きていた土方歳三と脱獄囚、第七師団の反乱部隊らが入り乱れて争奪戦を繰り広げる一大活劇。私の大好物な内容であって、当然ながら原作は全巻読んでブログの記事にもしていました。
 そんなファンではあるものの、映画は今まで観ていなかったのは、本作に限らずあまり日本の漫画の映画化に興味が持てないためだったのですが――いざ見てみれば、なかなか良くできた作品だったのは嬉しい驚きでした。

 内容的には、本作は原作の第1巻から第3巻の前半までとかなり序盤を題材にしています。
 杉元とアシリパそして白石の出会い、アイヌの黄金の在り処を隠した刺青人皮と脱獄囚の存在の説明、黄金を探す鶴見中尉一派の暗躍と捕らわれた杉元の戦い、第三勢力である土方歳三一味の登場――この『ゴールデンカムイ』という長い物語を描く上での、基本設定というべき内容が中心となっています。

 今こうして観てみると、まだこの時期はだいぶ抑え気味の内容だった――というか変態脱獄囚が登場せず、第七師団の兵士との戦いがメインになるので、ある意味当然なのですが(その分クライマックスで変態枠として二階堂兄弟が暴れた、ということはないでしょうが……)、しかしそれをメリハリの効いたアクションで盛り上げてくれるのが、まず嬉しいところです。
 冒頭の二〇三高地の戦いはそれなりに物量を用意して迫力を出していましたし、随所に登場する動物のCGも違和感も小さかったかと思います。。そして何よりもクライマックスのバトルシークエンスは(それ自体は原作でもあったものですが)、随所をボリュームアップさせて見応えあるものにした上で、クライマックスに原作以上に格好良い(そして杉元との関係性を示すかのような)アシリパの弓のシーンが用意されていたのに唸りました。


 しかしそれ以上に感心させられたのは、ストーリーの整理の仕方です。先に述べたように本作は原作ではまだ冒頭部分を題材としたもの――長編の週刊連載では得てしてこの時期はまだ作品のカラーが固まっておらず、描写や設定なども後から見ると微妙に違和感や物足りなさがあることもしばしばです。
 その点を本作は、原作のかなり先の方からも描写や設定――例えば鶴見が語る反乱計画の資金源や、鶴見が見せるアイヌの金貨の存在、土方とウィルクの関係など――を引用して補って見せているのは、やって当然とはいえやはり盛り上がるものです。

 そしてこうした描写の補完だけでなく、ストーリーの整理の仕方も納得できるものでした。例えば杉元が黄金を必要とする理由について、原作では冒頭で描かれた(しかしアシリパに語るのは相当後になった)のに対して、本作では終盤に描くことで、より印象的なものとしていたのには感心しました。
(ここも、原作ではかなり離れた時期に描かれていた、杉元が婚礼の時に寅次を投げ飛ばす場面と寅次が二〇三高地で杉元を投げ飛ばして助ける場面、この二つを連続して見せることで、対比が明確になるのもいい)

 そしてそのくだりの後に改めて杉元とアシリパの相棒としての決意を描き、その先で、これまで引っ張ってきた「オソマ」を初めてアシリパが――という場面で締めるのが巧みというべきでしょう。もちろんこのくだりは原作にもありまずが、この流れで描くことで、ギャグを交えながらも、杉元とアシリパの相互理解の深まりが、より明確になっているのですから。
(このくだりを生身でやると、かなり悪趣味にもなりかねないだけに一層……)


 もっとも、やはり気になる点はあります。例えばアイヌと和人の関係などは原作に比べるとかなりサラッと流された(それでも白石の問題発言が残っていたのは頑張ったといっていいものか)のは引っかかるところで、コタンでのアシリパとの会話も、ここをカットしちゃうの!? と驚いたのも事実です。

 また、個人的には予告編の段階から気になっていた、杉元や第七師団の服装が妙に綺麗だったのはやはり違和感が残りました。また、白石の漫画チックなキャラクターは実写で見るとかなり浮いていた印象は否めません。
(もう一つ、もう少し土方たちの出番が欲しかったところですが、これはむしろ原作では少し先の場面を持ってきて増やしているので仕方ない)

 とはいえビジュアル面については想像以上に良かった点も多く、さすがにこれは無理があるキャスティングではと心配した山崎賢人の杉元はほとんど違和感がありませんでしたし(時々、ハッとする程原作写しの目線があったり)、また山田杏奈演じるアシリパのあか抜けなさの絶妙なラインは、なるほど可愛い女の子でもこんな環境を走り回っていればこうなるかと、不思議に納得させられました。
 そして出番は少ないながらも、月島の存在感が絶妙(原作ではまだモブ扱いだった初登場シーンのインパクト!)と感じたのは、これは原作時点から好きなキャラだったためかもしれませんが……


 総じてみれば、原作から色々な意味でマイルドになったな、と感じる点はあれど、プラスマイナスでみればだいぶプラスの本作――新年に見るに丁度よい作品であっただけでなく、この後のドラマ版、そして映画の続編も、素直に期待が高まったところです。

|

2025.01.01

新年のご挨拶

 新しい年となりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この数年は色々と私事で慌ただしく、インプット量(≒読書量)が申し訳ないくらい少なかったのですが、昨年はようやく例年並みにインプット量を戻すことができました。
 本年も引き続きこのペースを心がけていきたいと思います。

 なお、これまでは主な活動の場をココログとしてきましたが、年が明けたのを機会に、noteをメインに変更したいと思います。ココログではこれまで毎日更新をほぼ19年半(7170日)続けてきましたが、さすがに仕様が古く、noteと並行して更新するのが地味に負荷となっていましたので、これからはnoteで毎日更新を続けていきたいと思います。
(しかしnoteってフリーだと予約更新できないのが悩みですが……)

 なお、ココログの方もアーカイブとして保管しておきます。気に入った記事については、サルベージしてnoteにアップすることはこれまで通りです。

 それでは、引き続きよろしくお願いします。

|

«2024年に語り残した歴史時代小説(その二)