表題作の「受城異聞記」など全5篇を収録した短編集。どの作品も、普段歴史小説をあまり読まない私にとって、「なるほどこういう切り口があったか!」と感心することしきりでしたが、特に印象深かったのは巻頭の「受城異聞記」と巻末の「けだもの」。
「受城異聞記」は、いわゆる郡上宝暦事件の結果、廃城となった飛騨高山城の受城を命じられた加賀大聖寺藩の苦闘記。加賀と飛騨は、直線距離としては近いですが、間に立ちはだかるのが白山、しかも指定された期間は冬の真っ只中。失敗すれば大聖寺藩も幕府から睨まれる…という危機的状況の中で、死地に赴く侍たちの生き様が描かれる作品です。その凄絶としか言いようのない決死の雪山行の緊迫感はもちろんのことですが、心に残ったのは、冒頭での主人公と家老の会話。
主人公の生駒弥八郎は、若い時分に恋人を藩主に奪われ、藩主の元に切り込んで死のうと思ったこともある人間なのですが、その彼を諫めた家老の言葉が以下の通り。
「侍の本分は義であり、侍の生きようは志にある」
「義とは名詮自性、我を美しくと書く。士農工商、侍が四民の上に位するのは、利に溺れず、名誉にとらわれず、その生きよう死に様が美しくあれと心得るところにある」
「そちが世を拗ね、ひそかに復仇を念ずることが、世に美しと言えるか、美しき生きようと言えるか、美しく死ねるか」
正直、私は武士道というものをどうも胡散臭ェと思っているひねくれ者ではありますが、一方で、人が人として正しく生きていくためには、自分の行動に対する美学が必要と思っている人間でもありますので、この言葉には素直にうなづくことができました。
…が、が、この作品の結末は、そんな単純な私を打ちのめすような壮絶なもの。愕然としつつ、この世の中で己の信じた道を、己に恥じない生き方を貫くことの難しさを考えさせられた次第。
そしてその衝撃を、娯楽時代劇的なフォーマットの中で突きつけてくれたのが、「けだもの」。主人公の三刀谷孝吉は、敏腕を謳われた北町の同心。それも単なる四角四面な法の番人ではなく、許せぬ悪には徹底的に厳しく、弱き立場の者には優しく融通を見せる男。絵に描いたような同心ものの主人公ですが、しかしその彼がその正義のために落ち込んだ地獄行を描いたのがこの作品。
ある旗本宅での強殺事件の捜査に不審なものを感じた三刀谷は、独自に調査にあたり、その中で、自らの欲望と復讐のために無実の男を陥れた真犯人の存在を知るのですが、その前に立ち塞がるのは、封建社会の裏で起きた不祥事を、幕府の「法」の誤謬を隠すために口を拭い、無実の男を死に追いやる奉行所の、幕府のあり方。
そして、あくまでも「法」の正義を信じようとする三刀谷に対し容赦なく浴びせられるのが、真犯人であり、流人の子というだけで悲惨な運命を背負わされた相川彦次郎の言葉。
「うぬは御法の罪のというが、侍と流人の身分の差が法で、それを越えようってのが罪か! はっきり言やあ法なんてものはな、侍が勝手に作り上げた、おのれに都合のいい取決めに過ぎねえんだ!」
ここで普通の時代劇なら、「てめたっちゃ人間じゃねえ! 叩き斬ってやる!」とバッサリ彦次郎をブッた斬っておしまい、なのですが、己の信じる法の正義を貫くため、同心の職を捨ててまで三刀谷が取った手段は――内容は伏せますが、あまりにも過酷で、時として眼を背けたくなるようなもの。法を貫くために、ここまでしないといけないのか! と叫びたくなるほどの、爽快感のかけらもなしの幕切れにはただ呆然。侍の世の正義に逆らうために道を外れた相川彦次郎というけだものと、三刀谷がしたことは、侍の世の正義を貫くために道を外れた三刀谷孝吉というけだものの姿に、ただただ圧倒されました。
この作品で描かれていたものもまた、「受城異聞記」と同様、この世の中で己の信じた生き方を貫いた男の姿と、その先に待つ重く苦い現実の姿。全く別々のベクトルの内容の作品でありながら、同じテーマを描いたとも言える二つの作品が、短編集の巻頭と巻末にあるのは、決して偶然ではないでしょう。
どちらの作品も、決して明るくはない結末を迎えますが、それだからこそ、理想を抱き、貫くことの尊さ・重さが伝わってくるのではないかと思った次第。
「受城異聞記」(池宮彰一郎 文春文庫)