全ては一つの命 「陰陽師 瘤取り晴明」
サルベージシリーズ。夢枕貘先生の陰陽師シリーズの一編であるこの作品、タイトルからわかるように、広く知られた「こぶとりじいさん」の物語をベースとしたものとなっています。
「こぶとりじいさん」の物語は、隣のじいさんがもう一つこぶを付けられてしまったところで終わるわけですが、この「瘤取り晴明」ではここからが晴明と博雅の出番。なおも鬼たちにつきまとわれることとなった二人のじいさん(この物語では双子の薬師)を救うため、晴明が百鬼夜行の群れを相手にどのような術を見せるか、それは読んでのお楽しみですが、いかにも晴明らしい、この「陰陽師」という物語らしい決着の付け方で、後味の良い、何とも趣深い結末となっておりました。
何よりも気持ちが良いのは、物語の中での百鬼夜行の鬼たちの描写。もちろん人にあらざるもの、この世のものならざるものたちである以上、姿は奇っ怪で言動も恐ろしいものではありますが、この鬼たちは――この「陰陽師」シリーズにこれまで登場したものたちと同じように――雅を解し、優れた芸能を愛する心を持った、何とも愛すべき存在として描かれているのです(まあ、そうでなくてはこの物語がそもそも成立しないのではありますが)。
恐ろしげなる鬼たちが人の踊りに喝采し、博雅の笛に随喜の涙を流す。それは一歩間違えると、何とも滑稽な眺めとなりかねませんが、この物語においては決してそんなことはなく、むしろ感動的ですらあります。たとえ人にあらざるものであっても――この世の則を超えたものであっても――我々人間と同じように、もののあわれを解し、優れた美に感動する心を持つ。…それは何とも心温まる、そして心強いことではありますまいか。
そしてそれは、美が種族の違いを乗り越えさせた、ということではなく、むしろ人間も鬼たちも同等の存在であり、だからこそ同じものに心を動かされた、と解すべきなのでしょう。
人間たちも鬼たちも、どれだけ異なる存在のようであっても、天然自然の中、根本では全て一つの命。それを時にはつなげ、時には分かつものが、一つには晴明の操る「呪」であり、一つには博雅の奏でる笛の音なのでしょう(おお、やはり晴明の言うとおり、博雅は大した漢なのだなあ)。
恐ろしくもユーモラスな物語を愉しみつつも、一つの(たいへん大袈裟に言えば)宇宙観すら背後に透かし見ることができる――この「瘤取り晴明」は、そんな作品です。
ちなみにこの物語に登場する百鬼夜行の中には、「陰陽師」のシリーズファンであれば「おっ」と思わされる面子も混じっており、一種の特別編的な愉しみもあります。これまで明かされていなかった博雅の笛の元の持ち主も現れますしね。
最後になりましたが、この作品は元々村上豊先生の絵による絵物語として描かれたものとのこと。これまでもシリーズを飾ってきた村上先生の絵は、俗っぽいものと雅やかなものが同時に感じられる不思議な作風であるとともに、どこかゆったりしたユーモラスな空気が流れる作風。民話をベースとしたこの物語には、たいへんよくマッチしておりました(おヒゲのある晴明と博雅は、正直個人的には違和感なのですがガタガタ言わない)。
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