「十兵衛両断」(3) 剣と権の蜜と毒
長々と書いてきました「十兵衛両断」感想ですが、今回でラストです。
「剣法正宗遡源」
そして最終話。「十兵衛両断」の直接の続編であり、十兵衛死後の時代を描いたこの作品に限っては、詳しい展開を語ることはできません。何とか中盤までの物語を語るとすれば、全ての日本剣法の源流は朝鮮にありという奇怪な朝鮮の主張の陰に見え隠れする、朝鮮柳生の影。朝鮮柳生壊滅のために立ち上がった柳生正統の麒麟児・六丸(時代劇にしばしば登場するあの人の若い頃です)と柳生の精鋭陣は、勇躍海を渡るも、そこに待っていたのは…
ここから先は、ぜひご自分の目で見て、そして驚きと恐怖、あるいは哀しみを味わっていただきたいところです。海の向こうで六丸が知った真実、直面した事態こそは、まさに剣法地獄。六丸の魂の慟哭が聞こえてくるかのようなラストの大殺陣は、まさにこの奇怪な作品集の掉尾を飾るにふさわしいものと言えます。
なお、贅言を承知で言えば、本作に登場するある人物の言葉は、山田風太郎の某作品(タイトルを挙げると本作のネタバレにつながりかねないのであえて伏せますが)を彷彿とさせます。
圧倒的な重みを持つストーリーを展開させつつも、先人へのリスペクトを忘れぬのも見事かと思います。
<最後に>
さて、「十兵衛両断」全五編の感想をようやく書き終えることができました。
荒山作品と言えば、日本と朝鮮という刺激的な題材がまず目に飛び込んできますが、その陰で、諸作品に共通して流れるのは、権力と個人の存在の相克、なかんづく権力の暴威に対峙する個人の意志ではないかと常々思ってきました。
その点は、この「十兵衛両断」以前に発表された「高麗秘帖」「魔風海峡」「魔岩伝説」の三作を、なかんづく各作品の主人公の生き様を見れば感じ取れるかと思います。
しかしながら、この作品集においては、いささか趣が異なるものがあります。何となれば、この作品集の主人公たる柳生の剣士たちは、(一部例外はあるものの)皆、権力の内側に立つ存在。その剣でもって己が仕える権力を支え、あるいは己自身が権力たらんとする者たち、それがこの作品集における柳生新陰流の姿、と言って良いでしょう。
そこで描かれるのは、権力の暴威に対峙する個人の意志では当然ありません。そこにあるのはむしろ時として自らが権力の暴威と化しかねない個人の姿であり、権力と個人のネガティブな融合とでも言うべきものといえるのではないでしょうか。
とはいえ、柳生新陰流に代表される剣法剣術は、本来であれば個人の力を極限まで高め、昇華すべき、いわば個人主義の極みとでもいうべきもの。その剣術が個人主義とは対極にある権力と結びつかんとした時――そこにある種の矛盾・軋みが生まれるのはむしろ当然のことかもしれません。
この作品集に収められた各作品の主人公――十兵衛・石舟斎・宗矩・純厳・六丸――が、いずれも作中、それぞれの形でアイデンティティの危機を抱え、迎えるのは、決して偶然ではないのでしょう。
剣と権の結びつきは、それを求める者にとっては蜜の如きものであるのかもしれませんが、その一方で、その者の身と魂を滅ぼしかねない毒ともなるのではないか。この刺激的な全五編を読了して、そう感じさせられたことです。
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