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2005.12.23

「陰陽師 瀧夜叉姫」 晴明が晴明で、博雅が博雅である限り


 夢枕獏先生の「陰陽師」シリーズの新作は、上下二巻から成る大長編。あとがきで劇場版への言及もなされていますが、これまでの短編連作がTVシリーズだとすれば、この作品は劇場版映画、とでもいうべきでしょうか。
 登場人物も、晴明と博雅のコンビは当然として、賀茂保憲や芦屋道満といったシリーズの準レギュラーも登場、さらには俵藤太をはじめとして浄蔵、小野好古など、当代の実在の人物たちが次々と登場し、豪華な顔ぶれとなっています。

 さて、本作の特長は、史実との関連性。特に最近は、あまり背景年代を明確にせず、史実からある程度の距離を置いて描かれていたこのシリーズですが、今回は舞台となる年代が明示されており、また上記の通り、歴史上の人物たちが重要な役割を持って多数登場しているところです。
 これらは全て、今回の物語が、過去のある事件の因縁をひきずっていることによるもの。その、ある事件が何かは、タイトルからバレバレではあるのですが、過去と現在が複雑に絡み合う物語展開からすれば、下敷きとなっている事件がわかったところで、全く面白さが減じるということにはなりません。むしろ、あの事件の背後にこんな事情が!? と、余計に楽しめるのではないかとすら思います。

 そしてもう一つの本作の特長は、邪悪の存在。どうしようもない業から災いをなすもの、ある種自然現象というべき怪異は登場しても、悪のための悪、心の底からの悪人というものが基本的に登場しないのがこのシリーズでした。
 が、本作では己自身の目的のため、友を、家族を、他者を犠牲にして顧みず、残忍卑劣な陰謀を巡らす全ての黒幕、まさに「邪悪」と言うべき存在が登場します。

 が、その「邪悪」に対して、正義の味方・晴明が対決しておしまい、になるわけもなく、またそれでは凡百の陰陽師ものになってしまうのも事実。
 そこで――本書のクライマックスにおいて、その「邪悪」に対して、真っ向から人としての在り方を胸を張って語るのが源博雅。登場人物が多い今回は、ちょっと埋没しがちなところもあるのですが、最後の最後で「これぞ博雅!」と喝采したくなってしまうようなイイ言葉を語ってくれます。
 そしてそれが、その「邪悪」の本質というものを逆説的に浮き彫りにし、「邪悪」の中に存在する哀しみ・哀れさを描き出す結果となるのですから、やはり博雅は自分では決して気づかないにせよ、特別な存在なのでしょう。

 そして、長い物語を読み終えて受けるのは、いつもの「陰陽師」と同じ――もちろん良い意味で――読後感。人であろうと鬼であろうと、善なるものであろうと邪悪であろうと、この世に生まれ、生き、死んでいく存在すべてへの静かな、そして優しい眼差しがそこにはあります。
 物語が豪華に派手になろうとも、史実に密着した展開になろうとも、邪悪の塊が登場しようとも――晴明が晴明である限り、博雅が博雅である限り、この「陰陽師」という物語の軸は全く揺るぎなく在り続けるのでしょう。
 いつまでもこの心地よい空間が在り続けますように。


 そして最後に台無しの腐った話。今回の晴明と博雅の会話もすごかったですなあ…特に下巻冒頭の牛車内での会話。
 例えば牛車を牽いてる下人か何かがこの会話を耳にしたら、その場にいたたまれなくなること請け合いのものすごいアツアツっぷりでしたよ。


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