勝手に負けた話
ちょっと自分語りをさせて下さい。
基本的にいいかげんで何でもありのこのblogでありこのサイトなのですが、ただ一つ自分への戒めというかポリシーというか、とにかく自分に課しているのは、批判にもならないような悪口は書かない、ということ。理由は色々ありますが、まずは、悪口書くひまがあったら自分も他人も楽しいことを書いていたいですからね、というくらいのいい加減なものであります。
で、その戒めを破って書きますが、僕は大塚英志――クリエイターとしての――が好きじゃない…というかぶっちゃけ嫌い。これまた理由は色々ありますが、常に自分の(原作を担当している作品を含めて)作品に対して、一種の逃げ道というか、「お前ら商業主義に乗せられてこんな漫画読んでるんじゃありませんよ」的な態度を感じてしまうのがその最大の理由で、こちとら道楽で読んでいるんだから、思いっきり商業主義って奴にブン回されてやろうという時に、いきなり目の前に鏡を突き出されて、自分でもちょっと気にしているマヌケ面を思い切り自覚させられた気分というか何というか。
…まあ、本当の理由は、僕が摩陀羅の連載当初からの読者だったから、ってのがあるんですがそれはいいとして。
しかしまあ、大塚英志の本の中には色々とこちらの興味を引くものが色々とあるわけで、しかし上記の如く大塚英志のモノの売り方が嫌いな人間にとって、その本をおとなしく買うのは何ともシャク。そこで考えた末に選んだのが、新刊は買わないで絶対古本で買うという実にセコい手段。大塚英志というより大沢在昌に怒られそうな手段ですが、自分のちっぽけなこだわりを満たしつつ読書欲を満たすという点では、まあ納得していたわけですよ。
そんな本の買い方をしていれば、当然出たばかりの新刊は手に入らず、ある程度流通した後の、大抵の場合何年か前の作品を手に入れることになるわけですが、そんなルートで今頃になって読んでいるのが小説版「木島日記」。
いずれきちんと採り上げるつもりではありますが、民俗学者・折口信夫を狂言回しに、戦前の民俗学・オカルティズムが軍国主義と絡み合っていく様を描いた奇妙な伝奇もの…と一言でいうのはためらわれるのですが、とにかくそんな作品。この作品が見事にツボったのであります。本当に見事なまでに。
勿論、内容的にも僕な好きな題材ばかり、ということはあるのですが、それ以上に僕が心惹かれたのは、本作が、日本がある時期確かにその渦中にあった軍国主義・国家主義という現実を、史実を、そのツールとして利用された「偽史」でもって、浮かび上がらせていること。
これはいずれ稿を改めてきちんと書きたいと思っているのですが、僕が時代伝奇ものを馬鹿みたいに読んでいるうちに遅まきながら感じるようになったのは、伝奇もの――なかんずく、既に固まって動かし得ない(と思われている)過去を舞台とした時代伝奇ものが、現実・史実を映す奇妙な鏡としての機能を持つということ。
奇妙な、とわざわざ付けたのは、それが対象を真っ正面からありのままに映すわけではなく、時に後ろから、時に真上から、またある時には内側から対象を映し出す作用があることからなのですが、いずれにせよ、そのような作用を持つ伝奇には、現実認識のツールとしての働きがあるのだと思えるのです(そしてその現実は、読者自身にとってのもののみならず、その創り手、あるいはその作品を受け入れた周囲の環境が認識している現実をも知ることができるのがさらに面白いところであります)。
話がくどくなりましたが、大塚英志が「木島日記」で試みていることは、僕がうすぼんやりと感じていたことを、まさに自覚的に利用していたわけで、それは上記の自分の考えをまとめる上でずいぶんと役に立ちましたし、何よりもその鏡像の見え方が実に面白かった、ということです。
で、タイトルに戻るのですが――遂に僕はこの小説版「木島日記」の続編、さらにはコミック版「木島日記」、そしてこの作品の(時代的)延長上にある「オクタゴニアン」、さらには「くもはち」(の小説版)と、次々と買ってしまったのですよ。新刊で(「北神伝綺」はかろうじて(?)古本で揃えましたよ)。ああ、もの凄い敗北感。
冒頭に書いたとおり、間違えても大塚英志の方向性・方法論に全面的に賛同するわけではなく(というよりアンチですが)、その作品にしても、現代もの・近未来ものについてはあまり魅力を感じないのですが、そういったことを抜きにしても、大塚英志の一連の作品の中に、色々と気になるものを見て、感じているのは事実なのでした。
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