「くもはち」 のっぺら坊の時代
明治の御代を舞台に、三流怪談作家の「くもはち」と挿絵画家でのっぺら坊の「むじな」のコンビが、明治の文人・作家たちが出くわした不可思議な事件の数々を解き明かす(?)妖怪ものの連作短編集。
得体の知れないところはあるが、基本的に人なつっこく妖精…おっと陽性のくもはちと、のっぺら坊になってしまったものの人間的にはごく常識人のむじなのコンビは、陰々滅々としたキャラクターの多い大塚作品の中では比較的珍しいタイプのキャラクターで、また、各エピソードに登場する有名人たちも、八雲・漱石・花袋・啄木・ドイル・そして柳田国男とメジャーどころで、かなりライト(もちろんいい意味で)な味わいの作品でありました。
とはいえ、こうしたタイプの作品でもきっちり設定や物語にそれなりの意味合いを持たせてくるのが、いかにも大塚英志らしいところ。実は作品解題は作者自らが小説版・漫画版両方のあとがきではっきりすぎるほどはっきり書いているので、今さらここであれこれ述べるのもこっ恥ずかしい話ではありますが、私なりに思ったことを少し。
本作は、近世から近代への移行期にあり、己の姿・行く先が未だ定まらない「のっぺら坊」な状態であった時期の日本を描いた物語。本作に登場する文人・作家たちは、自らの作品をもって近代的な日本像・日本人像を描きあげた人々であり、いわば「のっぺら坊」に顔を描いた人々。その彼らが、移行期特有のきしみからこぼれ落ちた妖怪たちに振り回される(振り回した方もいますが)のは、ある意味必然であったかと思うのです(その事件の顛末を綴るのが、のっぺら坊(であった)むじなという人物であるのもまた、何とも象徴的と言えましょう)。
ノリこそ違え、この作品もまた、伝奇ものを通じて、近代日本の(そして当然その後に続く現代日本の)姿を描いてきた大塚作品でありました。
なお、最終話に登場した魔所・八幡不知は実はうちの近所で、しばしばその前を通りましたが、その伝説の奇怪さに比して、今では全く残念なほど小さなスペースに追いやられてしまっています(つい数年前、道路拡張で更に狭くなってしまいました)。これもまた、「あってはならない」ものとして時代に追いやられた存在の一つかな、という印象であり、それが物語のラストに登場してきたことに全く個人的に感心したことです(ちなみにその近所に思いっきり神社があるんですけどね。全くどうでもいい話ですが)。
…と、そういった点に感心しつつもこの作品、妖怪もの、という点に期待しすぎるとどうかな…という部分はありますし、ストーリー構成的にもドタバタしすぎてちょっと首を捻る点もあって、満点とは言い難いのは残念なところ。
とはいえ、くもはちとむじなの二人は、ただ出てきて会話しているだけでも楽しいまさに名コンビであり、面白さという点では確実に合格点の遥か上を行く作品でありました。
そしてまた、最終話に至って、何故くもはちがむじなの側にいるのか、むじなの側でなくてはならないのかがわかるという仕組みにも感心。物語自体は、この最終話で綺麗な輪を書いており、これはこれで一つの結末としてうまくまとまっているとは思うのですが、やはりもっとこの二人の活躍を読みたいな、というのが正直な気持ちです。少なくとも、むじながのっぺら坊でなくなる時まで、くもはちとむじなの真の別れは訪れないのでしょうから――
ちなみに山崎峰水氏による漫画版の方は、やはり小説版に比べるとどうしても情報量が不足しており、物語の背景やそこに込められたものが読みとりにくくなっているのは何とも残念なのですが(何よりも漫画のみの石川啄木編のストーリーのナニっぷりには驚いた)、しかし絵のムードとしてはなかなかよく、「河童と白足袋」のエピソードなぞ、物語の背後の陰惨なムードが、実によく描かれていたと思います。日本人ばなれした風貌のくもはちも、なるほどな、というデザインではありますし…
全く個人的にはむじなは髪の毛なしというイメージだったので(よく頬かむりしていたせいか)、何だか若者らしい髪型をしているのにちょっと驚きましたよ。頬を染めた表情など妙に可愛いし。
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