今週の「Y十M 柳生忍法帖」 柳生十兵衛牙を剥く
さあ今週の「Y十M 柳生忍法帖」は、いよいよ私が…いやおそらく全原作ファンが待ちに待ったであろう「あの」シーンが登場です。堀の女たちを後に残し、孤剣を抱いて(うぐいすをお供に)鶴ヶ城に乗り込んだ般若侠――柳生十兵衛。
城兵こぞって待ち受ける中にただ一人立つ十兵衛先生、敵の首魁を向こうに回して、さあどうでるか!?
敵の本拠地に乗り込んだにしてはあまりに悠然とした態度の編笠十兵衛ですが、それとは裏腹に、周章狼狽といって様子で飛び出してきたのは沢庵和尚。和尚は、必死に堀の女たちを懇願しますが、十兵衛はこれを
「いやでござる」
の一言でばっさり。
これはどう考えても十兵衛に理がありますが、沢庵的には、これはもはや私闘の域を超え、天下国家の行方がかかった一大事。その旨かき口説く和尚ですが、そこで十兵衛が言った!
「あの女たちを見殺しにして・・なんの士道? なんの仏法? 仏法なくしてなんのための天海僧正!! 士道なくしてなんのための徳川家でござるか!?」
そしてさらに!
「・・もし、あの可憐な女たちを殺さずんば、僧正も死なれる、徳川家も滅びると仰せあるなら・・よろしい、僧正も死なれて結構!」
「徳川家も滅んで結構!!」
…これだ。これですよ。時代もの史上に残る、痛快極まりない十兵衛のこの啖呵!
大袈裟でなく、連載が始まった時から待っていたこのシーンを目にした時には、これまで幾度となく原作でも読んでいたにもかかわらず、胸にググッと迫るものがありました。
これはもちろん、元の科白の痛快さもありますが、しかしその魅力を幾層倍にもしてくれたのは、紛れもなくせがわ先生の画があってこそ。
この啖呵を描いたシーンでは、画のタッチは、普段のすぎるほどに精緻なものと異なり、筆の勢いというものを感じさせる荒々しいものに変化しており、それが十兵衛の心中に熱く滾るものを感じさせます。
しかし何よりも目を奪われたのは――この啖呵を言い切った時の十兵衛の表情!
編笠の下の十兵衛の顔に浮かんでいたのは、野太い、いやむしろ「獰猛」とも言うべき猛々しい笑み。それはまさしく、牙を剥いた、という表現がぴったりの表情でありました。
私は原作でこのシーンを読んだときには、実はもっと別な表情を想像していました。地の文でも「男性的な快笑」という表現をしていたこともあり、むしろ莞爾ととした笑みを浮かべていたものと。
しかしこの「Y十M」におけるこの表情を見せられて、大いに唸らされました。奔放、不敵、反骨…強敵ごさんなれと言わんばかりのこの笑みこそは、まさしく宣戦布告。そしてこの笑みの中にあるのは、単に目の前の敵ばかりではなく、可憐な女たちの決意の仇討ちを阻もうとする天下国家の仕組みに対して向けられた牙であります。
考えてみれば、最初からこの復讐行は、幕府の裁定に逆らった形と言うべきものでした。
「君君たらざるとも、臣臣たらざるべからず」というのが徳川幕府を成り立たせる常法であるとすれば、例えそれに対する仕置きが限度を超えた過酷なものであったといえど、主君に逆らった堀主水一族こそが「悪」。一種の上意討ちというべきものであれば、堀の女たちに、仇討ちは認められない。いや、そもそもそんな法は存在しないのです。
しかし、それが本当に人道に叶ったものなのか。何の罪もない女たちを涙に暮れさせ、無道の大悪党を笑わせておく、そんな世の中に仏道が、士道があるのか!?
十兵衛の啖呵に込められた想いは、もちろんこの時代に、この物語に特有のものではありますが、しかし、巨大な公の前に軽視される私というのは、現実においても、いついかなる時にも存在するもの。それだからこそ、十兵衛の啖呵はこれだけこちらの胸を打つのでしょう。
…もちろん十兵衛のこの言葉は、この時代の常識から考えれば、到底ありうべからざるもの。あの破倫無道の明成らをして唖然とさせるほどの破壊力でありますが、しかし沢庵和尚にとっては、むしろ警策の一撃に等しいものであったらしく、憑き物が落ちたような清々しい表情を見せます。
そしてもう一人――十兵衛のこの言葉に「ぶるっ」ときてしまったのがおゆら様。
十兵衛が城に乗り込んできた時こそ、十兵衛に感心したような態度を見せていたおゆら様でしたが、途中、十兵衛と沢庵との問答の頃には、もうすっかりお馴染み退屈したあくび顔を見せていましたが…
下世話な言い方をすれば「フラグが立った」やに見えるおゆら様ですが、さてそれが吉とでるか凶とでるか。
そんなことは露知らず、何と沢庵和尚を人質に取って芦名衆に抗しようとする十兵衛の運命は果たしていかが相成りますか、ありがたいことに続きは来週に読むことができそうです。
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