「山彦乙女」 脱現実から脱伝奇へ
もう幾度目かになりますが、山本周五郎先生の「山彦乙女」を読み返しました。
禁断の地に踏み入って発狂した末に行方を絶った叔父の遺品を主人公が発見する導入部は、むしろクトゥルー神話の定番的で(ちなみにこのパターンは時代伝奇の世界ではさほど使われていない一種のコロンブスの卵であります)、伝奇小説としての興趣満点なのですが、冷静に読み返してみると、本作の目指したところが、むしろ伝奇ものを遙かに離れたところにあることに気づかされます。
本作の主人公・半之助は、一言で表せば浮世離れした人物。(状況的な事情はあるとはいえ)世間的な評判や地位というものを嫌い閑職を望む、ある意味若者らしからざるキャラクターです。
この彼の浮世離れは、しかし、浮世を知らぬからではなく、浮世を見過ぎた――もっともそれは青年らしい感慨が多分に含まれていますが――が故のもの。人間が人間らしく生きることのできぬ現実世界へのいらだちと反発が、彼の中にあります。
そしてこの彼のキャラクターこそが、大袈裟に言えば、本作を伝奇ものとする必然性を与えていると言えます。
つまり、日常の現実を基盤にしつつ、異常の事件を設定することにより、それを踏み越えた境地に入り、そしてその立場から現実を俯瞰する。浮世を離れたがっていた彼にとって、この伝奇的な物語に巻き込まれることは、ある意味望むところだった、と取ることもできるかもしれません。
しかし本作が、この半之助という主人公が求めたものは、伝奇物語の中にはありません。(本作の)伝奇構造の中に含まれる世俗的な善と悪の対立、あるいは過去から現在に影響を及ぼす因縁といったものは、畢竟、現実の延長線上にあるものであり、彼の忌避する、人間を人間らしく生きさせない世界は、伝奇物語を抜けた先にもあるのですから――
こう考えてみると、本作の向かう先は、脱現実の先にある伝奇世界ではなく、そのまた向こう、脱伝奇の世界にあるように感じられます。
もちろんこの見方は、伝奇もの、という概念を基盤においてのものであり、また、人間らしく生きることを現実逃避と直結して読むことは、見当違いな解釈かもしれません。
さらに身も蓋もないことを言ってしまえば、本作を楽しむ上で特に必要はないものではあるのですが、一見、典型的な時代伝奇小説である本作の中に、そのフレームワークを否定するような構造が存在することは、ちょっと面白く感じられたことです。
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