「地獄太夫 やなぎばし浮舟亭秘め暦」 二つの世界の心地よい距離感
恥ずかしながら森真沙子先生の作品は、だいぶ前に二、三作読んだきりだったのですが、目を引く題名と表紙に惹かれて本作を手に取りました。
若くして夫に先立たれ、必死に柳橋で料亭「浮舟」を切り盛りする若女将・結が出会う、様々な人間模様を奇談・怪談の味付けで描いた連作短編集です。
ある日、「浮舟」に浮世絵の版元から入った三日間の予約。そこに逗留することとなったのは、伝説的遊女・地獄太夫の再来と謳われる遊女を描いて一躍人気となった絵師でした。
そこで新作を描くという絵師に興味を抱く結ですが、しかし、絵師は昼間から部屋に閉じこもり、そこから聞こえてくるのは奇怪なうめき声…絵師を訪ねて奇怪な坊主まで現れ、結は不吉な予感を抱くのですが――
というのが、表題作「地獄太夫」のあらすじであります。
地獄太夫とは、名家に生まれながらも妓楼に売られた不幸を、己の前世の悪行の報いと考えて「地獄」という不吉な名を名乗ったという室町時代の遊女。その評判に彼女を訪ねた一休宗純が、その才知に舌を巻いたとの逸話も残っています。
江戸時代を舞台とした本作の地獄太夫は、もちろんその室町の遊女とは別人。ですが、彼女とその客が辿る道行きは、この世の地獄とも極楽ともいうべき奇怪かつ哀しいものであります。
結は、思わぬ形で今地獄太夫の愛の結末を目撃することになるのですが――その果てに遺されたものの、何と妖しく美しいことか。
この作品をはじめとする本書の収録作「地獄太夫」「流人船」「秘め絵」「海童丸」「十三夜」「迷い橋」において、ある時は怪談風味に、あるときは奇談調に、またあるときはミステリの趣向で…様々な形で物語は展開されます。
が、そこにあるのはいずれも人と人との間の、不可思議で、しかしどこか普遍的にも感じられる関係。そんな人間の諸相を、結は目撃することになります。
考えてみれば、結の暮らす柳橋は、陸と水の接するところ。そんな舞台だからこそ、男と女、大人と子供、生者と死者――隣り合いつつも決して交わることのない二つの世界の物語が語られるのに、ふさわしく感じられるのでしょう。
結の立場は基本的に傍観者であり、彼女の視点から物語を眺める読者もまた同様なのですが、しかしその距離感が、不思議な心地よさを生んでいるようにも感じられます。
ページ数の割りに作品数が多めのせいか、いささか内容的に食い足りない部分もなきにしもあらずですが、色好みで問題ばかり引き起こす舅の寛兵衛、底の知れない風呂焚きの銀次など、脇を固める人物も面白く、結が目撃する物語を、この先もまだまだ一緒に味わいたいものです。
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