「これだけは読みたいわたしの古典 南総里見八犬伝」
結城合戦に敗れ、辛くも落ち延びた里見義実は、不思議な空飛ぶ白竜に導かれて安房に渡る。そこで暴政を続けていた山下定包を、農民たちと共に討った義実。しかしそれから十数年後、彼を思わぬ危機が襲う。その中で彼が頼ったものは…
今から約四十年ほど前に刊行された児童向けの古典文学シリーズを、つい二年ほど前に再刊した「これだけは読みたいわたしの古典」。
その中の南総里見八犬伝であります。
さて、私もこのブログで「八犬伝特集」と称して様々なメディアの、様々な内容の八犬伝を扱ってきましたが、本作はその中でも極めて特殊な部類に入るのではないかと思います。
何しろ本作、八犬士が登場しない。
本作の主人公は、八犬士の霊的な生みの親たる伏姫の父・里見義実なのですから…
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」の冒頭で語られる、安房里見家の由来と、伏姫の悲劇の物語――
結城氏朝が足利持氏の遺子を擁して幕府に反抗した結城合戦に参戦しながらも敗れ、流れ流れて安房に辿り着いた里見義実。
彼は、神余光弘を下克上して滝田城を奪った山下定包を、神余家の遺臣・金碗八郎の助けを借りて討ち、そのまま滝田城主となります。
その後、安房を二分する安西景連の攻撃に遭い、滅亡の危機に瀕した義実は、娘・伏姫を嫁にやることを条件に、彼女の愛犬・八房に景連の首を取ってくるように持ちかけるのですが…
という、あの物語を本書は丸々一冊を使って描いているのです。
普通の八犬伝リライトであれば、ダイジェストで描かれることがほとんどの冒頭部分、なかんずく義実の安房入りの部分が、何故ここまでピックアップして描かれるのか…
その謎は、巻末の解説を読んでようやく解けました。
簡単に言えば、馬琴の「南総里見八犬伝」は、「水滸伝」をベースに描いたものではあるものの、当時の時代的制約から、当時の支配者の論理を支えた儒教精神に則って描かれたものである。
そこに「水滸伝」的な社会変革の精神は薄く、本作はそれを取り戻すため、農民たちと共に立ち上がって安房を平定した義実の物語を描こうとした(もちろん、分量的な制約も踏まえてのことではありますが)…ということのようです。
なるほど、この見方はなかなかに面白く、有名な「仁義八行の化物」批判などを考えれば頷ける部分がなくもありません。
しかしながら、八犬伝中に当時の社会情勢が批判的に描かれているとする論もあること、また「水滸伝」を農民起義の物語とする現代中国の論に、一種の違和感を感じる立場からすれば、やはり本書の目指すところを素直に頷けるものではありません。
調べてみると、本書の編著者である猪野省三は、戦前から活動していたプロレタリア児童文学者とのこと。
なるほどそれで…とあまり簡単に納得するのも申し訳ない気もしますが、やはりこれが八犬伝だよ、と見せられる子供の気分になってみると、さすがにこれはいかがなものか、という気持ちになります。
物語冒頭から義実を導いてきた、実は義実にしか見えぬ空飛ぶ白竜が、義実自身の、平和と正義と自由を尊ぶ心の象徴だった、という結末は、これはこれで面白いのですが…(むしろ、これを八犬士の存在とどう整合性をつけるのか、という部分も含めて)
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