「青嵐の譜」 嵐の前に立つ希望
嵐の次の日、二郎と宗三郎は、小舟で漂着した少女・麗花を見つけた。二郎の家で育てられることとなった麗花だが、元軍の来襲が三人の運命を大きく変える。元軍への復讐に燃える宗三郎、旅芸人の一座に加わる麗花、そして数奇な運命の末に元軍の一人となった二郎。彼らの運命の交わる先にあるものは…
戦国のバンド小説と言うべき「桃山ビート・トライブ」でデビューした天野純希の第二作は、一転、元寇を背景に、壱岐で育った三人の男女の運命の流転を描いた歴史小説であります。
商人の息子ながら絵を好み、宋で絵を学ぶことを夢見る二郎。宋人の女郎の子として生まれながら武家の養子となり、出世を夢見る宗三郎。そして、高麗の武官の庶子として生まれながらも、政争で父を失い、日本に漂着して二郎の妹として育てられた麗花――
それぞれ生まれも身分も異なりながらも兄妹のように育った三人の運命は、元軍の襲来により、大きく狂わされていきます。
言うまでもなく日本史上の一大事件である元寇。その元寇を描いた物語は、もちろん数多く存在しますが、しかしそれらは基本的に武家の視点、マクロな視点から描かれたものでありました。
しかし本作は、実際に元寇の被害を被った壱岐や対馬の庶民、地方武士たちの視点――いやそれだけでなく、否応なしに戦いに巻き込まれた日本以外の人々の視点からも、元寇という巨大な嵐の姿――いや、時代・歴史の巨大なうねりが描かれていくのです。
そう、本作は、単に元寇を描いたものではありません。元寇を引き金に浮かび上がった理不尽と不幸――民族・職業による差別、権力者のエゴにより翻弄される人々、被害者が被害を与える側に回る連鎖、等々――その数々を、本作は描くのです。
元寇そのものは、もちろんこの時代に特有のものであったとしても、それが生み出したもの、そしてそれを生み出したものは、いつの時代にも大なり小なり存在する、こうした理不尽であり、そしてそれは寄り集まって、、個人の力を以てしてはどうにもできない、時代・歴史の巨大なうねりとして現れることになります。
本作において物語の二郎・宗三郎・麗花の三人の運命が変わる時に吹き荒れる嵐――それは、この巨大なうねりの象徴にほかなりません。
それでは、人間という存在は、巨大な力の前に全く無力なのでしょうか? そうかもしれない、しかし決してそれだけではないと、本作は語ります。
その象徴として描かれるのは、音楽――麗花の笛の音色がもたらすそれは、人間の持つ美しい部分の象徴であり、そして人間と人間はわかり合うことが出来るという、希望の象徴でもあります。
冒頭に述べた作者のデビュー作は、音楽とそれを奏でる者を前面に押し出し、その時代に対する反抗精神を描いた作品でした。
本作には、そのような明確な反抗精神は見られません。しかし、その代わりに、人の世に、深く静かに潜み、人の心を支えていく、そんな音楽の力が描かれることとなります。
歴史が、時代が、そして人間が生み出す悲劇を描きながらも、決して悲しみだけに終わらないものを描く――
青いかもしれません。甘いかもしれません。それでも私は、この作品と作者の態度を、こよなく愛するものであります。
「青嵐の譜」(天野純希 集英社) Amazon
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