「楊令伝 七 驍騰の章」 生を全うすることの意味
文庫版「楊令伝」も、気がつけば早いものでもう折り返し地点。この第7巻では、ついに梁山泊と宋国軍――童貫との最終決戦が開始されることとなります。
北での遼国との戦い、南での方臘との戦い――いずれも、梁山泊と浅からぬ縁を持っていた二つの勢力の戦いに辛うじて勝利したものの、ほぼ限界にまで追いつめられた宋という国家。
その軍をほとんど一人で背負う童貫は、己の生涯最後の戦いの相手と思い定めた梁山泊、そして楊令を倒すため――
梁山泊、そして楊令は、長かった雌伏の時から立ち上がり、悲願である宋国打倒の最後の障害、そして何よりも、かつて一度は梁山泊を滅ぼした怨敵である童貫ただ一人を倒すため、決戦に挑むこととなります。
しかし、梁山泊と宋国軍、楊令と童貫は、これまで幾度となく干戈を交え、お互いの手の内を良く知った相手同士。戦力を見ても、量の面では宋側が遙かに上回るものの、質の面では新たな力を迎えた梁山泊は、勝るとも劣らない状況にあります。
そんな状況下で展開されるのは、作中でもしばしば言及される通り、相手の出方の読み合いとなります。
己の所在を伏せて岳飛の軍に加わり、最前線に出て梁山泊の力を確かめる童貫。
自ら寡勢を率いて宋国の大軍の中に突入し、これを抜いてみせた楊令。
戦いの常識から考えれば無謀とも無茶とも言える二人ですが、戦いの状況は、そんな意表を突いた行動も必要とするものとなっているのであります。
さて、ここでいわゆる「無双」をしてみせた楊令ですが、実は本書においてはもう一度、彼が似たような行動を取る場面があります。
しかし、形としては似たように見えても、その意味合いはそれぞれ全く異なっています。
最初のそれが梁山泊の頭領としての楊令が行ったものとすれば、二度目のそれは、個人としての楊令が行ったもの――楊令という人間の二つの側面が、その中に表れているのであります。
前の巻の感想でも触れたかと思いますが、楊令は、前の巻辺りからようやく人間味…というよりむしろ心の内を見せ始めました。
「水滸伝」という長大な前作があるとはいえ、全体の三分の一までタイトルロールの内面が描かれてこなかったというのには、正直なところ不満と不安を感じていた面はあります
(そして恐らくその不満と不安は、作中で梁山泊の面々もまた、感じていたものなのでしょう)
もちろんそれにはそれなりの理由があったわけですが、そこから解き放たれた楊令が、ようやく一個の人間としてその顔を見せてくれたことに、ホッとしたような、どこか寂しいような…そんな気もいたします。
さて、この第7巻において、「楊令伝」に入ってから、梁山泊に初の犠牲者が出ます。
冷静に読んでみれば、(下世話な言い方をすれば)死亡フラグは立ちまくっていたのですが、しかしそれをその時まで全く感じさせないのは――全ての登場人物に平等に死が訪れる作品であり、フラグなど関係ないとはいえ――作者の筆の力というものでしょう。
これまで長きに渡ってきて梁山泊を支えてきた彼の最期には、読者としても、ある種の悲しみを感じます。
しかしそれ以上に、最後の最後まで己の為すべきことを貫き、そして次の世代に繋いでみせたその姿に、憧れに似た想いを抱いた――というのは、これは私が老けただけなのかもしれませんが、しかし、それも正直な感想であります。
この巻において語られる「志」というものの在り方を思えば、彼もまた、その志を貫いてみせた――すなわち、己の生を全うしたのでしょう。
もちろん、生を全うする、そのやり方は様々であり、その多様性は、これまでも北方水滸伝の魅力の一つであるように感じます。
しかし、明確に次の世代が登場し、活躍を始めた本作において、生を全うするということに、また別の意味が加わった、というよりよりはっきりと感じられるようになった印象があります。
その姿を見届けるのが恐ろしいような――そして申し訳ないことですが――楽しみなような、そんな想いが、こちらにはあるのです。
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