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2012.04.07

「桃の侍、金剛のパトリオット 3」 近代という夢の終わりに

 ついに勃発した第一次世界大戦。対外強硬派の暴発を憂慮する山県有朋は、政敵の原敬に後の政治を託すとともに、モモを大陸に送り出そうとする。だが、モモのためらいにつけ込んだ共工は彼女を連れ去ってしまう。俊介と蘭芳らは、モモを追って因縁の地・長岡を訪れる。果たして最後の戦いの行方は…

 大正初期を舞台に、五行の魔神の力を継いだ若者たちとシュネル=獣=水神・共工との戦いを描く「桃の侍、金剛のパトリオット」は、この第3巻でひとまず完結であります。

 前作のラストで勃発した第一次世界大戦。 守旧派を装いながらモモを庇護してきた山県有朋にとっても、この激動の中で対外強硬派を抑えることはもはや限界。山県は、犬猿の仲でありながらも密かに認めるところのあった原敬に後事を託することになります。

 しかし、原が、日本の新たな政治権力がモモの力を狙わないという保証はない。かくて、山県は、蘭芳が五族共和の国家建設準備を進める大陸に渡ることをモモに進めるのですが、まさに共工の魔手はその時にモモを狙って椿山荘を襲撃することに――


 と、物語の方は盛り上がっていくのですが、しかし本作で最も印象に残るのは、俊介が出会うある人物の存在でありましょう。
 その人物とは、かの夏目漱石――占いの客として俊介と出会った漱石は、俊介に対し、日本の近代とは何であったか、近代という夢の存在を語るのであります。

 実に本作は、太古から続く人と神の対決を描く伝奇活劇でありつつも、それを通じて、近代という時代と、その終焉を描くことに力を注いでいるやに感じられます。
 時あたかも明治が終了し、大正が始まったばかりの時代。そして、第一次世界大戦という巨大な嵐が日本を変えていこうとする時代…そんな中で、「未来」を読む力を持った俊介は、「過去」を――明治という時代、近代という時代と対峙することになるのです。

 もちろんその構図はここで初めて登場したものではなく、これまでのシリーズにおいても、俊介と主に山県有朋の関係で描かれてきたものでありました。
 しかしその山県が、公の世界、国家の立場から近代を代表する存在であったとすれば、漱石は私の世界、個人の立場から俊介に近代という夢の存在を語るのであります。

 夢――それは理想であり、願望であり、そしてはかない幻。人を惑わせることもあれば、人の原動力ともなるものであります。
 幕末という時代から語り起こされたこの「桃の侍、金剛のパトリオット」という物語のひとまずの結末において、その後の日本を形作ってきた近代という夢の終焉を描くことは、それなりに頷けることではあります。

 そしてここで語られる「近代」の姿とその終焉を前にして自分自身のあり方に悩む俊介の姿は、「現代」という時代と、そこに生きる我々の姿に重なって見えるのは、もちろん私の考えすぎではありますまい。


 正直なところ、物語としては「俺たちの戦いはこれからだ」+「君たちのお手並み拝見といこう」という結末ではあり、そこはやはり残念ではあります。
 しかし、そこに物語の背景として、いや、物語の隠れた主役として存在してきた近代の終焉の姿を重ねてみるのは――近代精神の象徴としての漱石を持ってくるのは、これはこれで力業ではありますが――決して悪いものではありません。

 ここで我々とはひとまずのお別れとなる俊介とモモ。彼らと再び出会うことができるのは、この「現代」の、その先の形が見えてきた時――その時なのかもしれないと、頁を閉じて感じた次第です。

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