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2012.04.22

「楊令伝 十 坡陀の章」 混沌と平穏と

 ちょうど全体の2/3となった文庫版「楊令伝」第10巻。冒頭から戦いの連続という印象のあった本作ですが、この巻では戦らしい戦はほとんど描かれず、楊令や梁山泊の面々のある意味平時の姿が描かれますが…しかし、歴史は着々と動きつつあります。

 梁山泊との決戦でついに童貫が倒れ、その直後に侵攻してきた金軍により、崩壊目前となった宋という国家。
 この巻の冒頭では、首都である開封府が破られ、帝をはじめとする宋国朝廷がほとんど金に連行されるという異常事態となります。
 しかしこれは童貫が倒れた時点で予測されていた事態。
 これに対し梁山泊は静観――いや、戦の代わりに梁山泊という民のための国を作るために必要な、東は日本から西は中近東までを結ぶ貿易ルート構築に力を注ぎ――を保ち、官軍の将軍たちはそれぞれの兵を抱えて地方に割拠と、既に次の体制作りを見越した動きが始まることとなります。
 そして江南では、暗躍を続けていた青蓮寺の李富がついに大きく動き出し、新たな国家が胎動を始めます。

 この「楊令伝」という物語が始まってしばらくは、梁山泊・宋・金・遼・方臘と複数の勢力が入り乱れた複雑な状況となりましたが、現時点はそれをさらに上回る状況。
 梁山泊・金・北宋(金の傀儡政権)・南宋(になるもの)・地方軍閥(岳飛・張俊・韓世忠)の各勢力が合従連衡を繰り返し、まさに「混沌」としか言いようのない状況であります。

 そんな中で、しかし、楊令はある種の平穏さを取り戻しているように見えます。
 この巻では、楊令は領内の各地を巡り、梁山泊の同志たちと様々に語らい、その中で様々な側面を見せて行くこととなるのですが、これが面白い。

 これまで物語が始まって以来、鬼神の如き戦いぶりを見せてきた楊令ですが、それはある意味、彼という個人の姿を見えにくくしていたのは事実。
 それが、こうして様々な人々と触れ合う中で、人間としての顔を見せ、そしてそれは同時に、彼と出会った人々の新たな顔を見せていく――本作を含めた北方水滸伝の最大の魅力は、様々な人間たちの生き様を活写する群像劇にあることは言うまでもないかと思いますが、戦の場を離れることで、この群像劇の魅力が、より強まった感があります。

 そしてそれは梁山泊サイドのみではありません。楊令とは激突する宿命にある岳飛も、この巻では配下を抱えて(精神的にも肉体的にも)放浪を続ける中で、様々な出会いを経験し、あるべき己の姿を模索していくことなるのですが、その姿もまた、魅力的に映ります。
 特に、この巻で彼が辿り着く「盡忠報国」の想いは、一般的な言葉のイメージとは異なり、むしろ梁山泊の「替天行道」に通じる概念となっているのが実に興味深い。

 方臘とはまた別の意味で、もう一つの梁山泊とも言うべき存在として、彼の今後が大いに気になるところであります。
(その一方で、徐史との馬鹿馬鹿しくも微笑ましいやりとりは、深刻な場面の多い本作においては実に貴重であります)


 しかし、そんな中で楊令と岳飛以上に私に強い印象を残したのは、死を目前とした金大堅であります。
 これまで、主に宋の公印の偽造という立場で梁山泊の革命に貢献してきた金大堅。その彼が、生涯の終わりを迎えるにあたって、遂に偽物ではない、本物の公印を作ることが出来た…
 それに誇りを抱く彼の姿からは、地味ではありますが、しかし鮮烈に、そして感動的に梁山泊という存在の変化を――そしてそれは原典からの変化でもあります――教えてくれるように感じたのです。


 そんな数々の変化を重ねつつ、状況はさらに動いていきます。残すところあと1/3、楊令と梁山泊の、いや物語に生きる人々全ての行く先がいよいよますます気になるのです。

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