「ふたり、幸村」(その二) 神と人の間に
昨日の続き、山田正紀の「ふたり、幸村」について、本作の構造を中心に紹介したいと思います。
本作の舞台となる天正十二年から慶長二十年までの約30年間は、戦国時代の末期――戦国時代から江戸時代、中世から近世に移り変わる時期であります。
そして本作においては、その大きな時代の変遷、歴史のうねりを、神々の交代という概念で描き出します。
ここでいう「神」とは、実在する人間以外の超越者ではなく、一種の概念、時代を動かす者の意であり、そしてその象徴と言えばよいでしょうか。
幸村がその生涯で出会う、何人もの神々、戦国時代の神々と出会うこととなります。その神々とは、真田昌幸・望月六郎・山本勘助・判兵庫といった軍配者たち――戦国の背後にあってそれを動かし、リードしてきた存在であります。
彼らは己の才覚でもって、人を、国を、そして歴史を動かして来た者たち――なるほど、その身はあくまでも人であれど、その為したことは、人としてはあまりに巨大であったと言えるかもしれません。
しかし戦国の終わりとともに、彼らは姿を消していくこととなります。変わって現れる神とは天道――この世の道理・真理を体現し、代弁する存在。本作においては、家康の存在がそれに当たるものとして描かれることとなります。
荒ぶる神、歴史を動かし操る者から、天の代理人としてのそれへ――大坂の陣とは、そんな、性質を異にする神々同士の戦いであったと言えるのです。
しかしながら、本作で描かれる幸村の最後の活躍の姿からは、結果として彼がそのどちらにも属さぬ道を選んだように感じられます。
戦国の世に殉じ、武将として死に花を咲かすのではなく、天道の名の下に、弱き者への非道を認めることを許容するのでもなく――そのどちらにも与せず自分の意志を貫こうとする、人としての道を。
すなわち本作は、歴史の境目に現れた、歴史を動かす神々の姿を描くと同時に、それに対して己の足でどこまでも歩もうとする人の姿を描く、神と人の物語なのであります。
…しかし面白いのは、それとはまた異なる次元で、幸村が生き続けているように感じられる点であります。
現代の我々がよく知るように、幸村の活躍は、史実とは――すなわち彼自身の思惑とは――離れた形で、虚構の中にその名を留め、今なお親しまれています。
それはすなわち、彼がもう一つ別の神に…物語という名の神となった、と見ることができるのかもしれません。
本作は、二人の幸村を配置することで、真田幸村にまつわる様々な謎、矛盾をある程度乗り越え、新たな幸村伝を構築してみせた作品であります。
そしてそれと同時に、人の幸村と神の幸村、二つの幸村の姿を描くことにより、時代の変遷、歴史のうねりというものを、象徴的に描き出した…そう言えるのではないでしょうか。
もちろん、本作はまだまだ様々に読み込むことができる作品であり、ここに述べたのも、あくまでも一つの見方に過ぎません。
ぜひ、この史実と虚構の間に存在するかのような不思議な作品を手に取っていただき、そこに何が見えるのか、ご自分の目で確かめていただければと思います。
「ふたり、幸村」(山田正紀 徳間書店) Amazon
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