「忍び秘伝」 兇神と人、悪意と善意
永禄四年、川中島の戦で敵味方に多大な死をもたらしたのは、武田信玄と山本勘助の手により出現した兇神・御左口神だった。歩き巫女の少女・小梅は、謎の忍者・加藤段蔵から、自分の存在がその兇神と密接に関わることを教えられる。小梅と真田家の青年・武藤喜兵衛は、兇神を狙う段蔵の野望に挑む。
乾緑郎が時代小説大賞を受賞した「忍び外伝」は、一見普通の時代小説のようでいて、実は、というユニークな作品でした。それであれば、似たようなタイトルの本作もまた…? と考えてしまうのが人情ですが、いやはや、その期待は裏切られることはありませんでした。本作もまた、時代小説としての格好をきちんと保ちつつも、その中に実は! と異次元の色彩を織り交ぜた、作者ならではの作品であります。
物語の始まりは天文年間、武田晴信に攻められた諏訪頼重が、山本勘助の介錯により切腹する場面から始まります。
頼重と晴信の妹の間に生まれた寅王丸は、その勘助の手に奪い取られ、伊賀の藤林家に預けられた末に加藤段蔵を名乗ることに…
一方、段蔵と共に育ち、後に甲斐望月家に嫁いだ千代が設立した歩き巫女の里で育てられた小梅は、ある日、段蔵に襲われたところを、真田幸隆の子・武藤喜兵衛に救われることとなります。
山本勘助、加藤段蔵、小梅、武藤喜兵衛――彼らの、そして諏訪家と武田家の数多くの人々の運命を左右し、本作の中心に存在するのは、謎の兇神・御左口神(みしゃぐち)。
未だに謎の多い神性である御左口は、諏訪大社で祀られていたとも伝えられますが、本作においては、一度解き放たれれば、無数の人々の血肉を貪る、まさしく兇神としか呼びようのない存在として描かれます。
川中島の戦で、三方原の戦で召喚され、そこに地獄を生み出した御左口神の力を巡り、小梅と喜兵衛は、段蔵、そして勘助と対峙していくこととなるのですが――
このような物語を持つ本作は――長いタイムスパンと、次々と変わる視点を持つものの――基本的には、武田三代の盛衰を背景に、小梅の視点から、兇神の巡る人々の闘いを描いた時代伝奇ものとして読むことが可能です。
その意味では、本作は比較的オーソドックスな物語と感じられるのですが…しかし、この作者がありきたりな作品を書くわけがない、という期待が裏切られることはありません。
前作は、時代伝奇ものの格好をしつつも、ラストで時空を超えた物語をSF的世界させ、私たちを大いに驚かせてくれましたが、本作においても、その背後に、ある種ジャンルクロスオーバー的なものを配置しているのであります。
時代ものでこの題材を扱った作品は、実は本作が初めてというわけではありません。その意味では、斬新さ、という点では一歩譲るかもしれませんが、暗喩を中心とした節度を守った使い方をすることにより、その題材のインパクトのみに頼った作品となっていないことは、大いに評価できるでしょう。
(それだけに、終盤のネタバラシはちょっと蛇足だったようにも感じられるのですが…)
そしてもう一つ、本作においては、その構造において大きな仕掛けが用意されています。終盤に描かれるある展開を踏まえて、もう一度本作の冒頭部分を読み返せば、全く違うものが見えてくるという構成の妙には、誰もが驚かされることでしょう。
そして真に素晴らしいのは、その構成が、一種本作のテーマと密接に関わっている点でしょう。
人知の及ばぬものを弄んでなお、己の欲望を満たそうとする人間の悪意の存在――本作の終盤で描かれたものは、その悪意が絶えることなく繰り返されることを示したものでしょう。
しかしそれに対し、己の愛するものを守り、慈しむ人間の善意もまた、終わることなく繋がれていくことを、本作の結末は明確に示します。
過去を向いた悪意と、未来を向いた善意――その二つが鮮やかに対比された本作の結末は実に美しく感じられるのです。
ジャンルを超えた題材・展開を用意しつつも、それに頼ることなく、時代小説ならではの、時代を踏まえ、時代を超えた物語を描く――前作においては不満の残ったその部分を見事に解決し、優れた物語を見せてくれた本作。
いやはや、この作者のこれからが、いよいよ楽しみになるばかりなのであります。
「忍び秘伝」(乾緑郎 朝日新聞出版) Amazon
関連記事
「忍び外伝」 恐るべき秘術・煙之末
| 固定リンク
コメント