「佐助を討て」 悪夢の猿と名もなき者たちの叫び
豊臣家を滅ぼした徳川家康は、しかし大坂夏の陣で自分の首を危うくした猿飛佐助の存在に怯え、その抹殺を厳命する。伊賀組に属する青年忍び・壬生ノ数馬は、佐助包囲網に参加するも瞬く間に包囲網は壊滅、何もできぬまま生き残る羽目となった。幾多の犠牲を払いながら佐助を追う伊賀組と数馬だが…
猿飛佐助といえば、真田十勇士の筆頭として、主君の真田幸村同様、いつの時代も変わらぬ人気者であります。小説や漫画などに登場する時も、ほとんど全ての場合、善玉ヒーロー的扱いとなるのですが…
しかし本作における佐助は、その実に珍しい例外。悪役、というより敵役――それも極めて強大な――であり、本作はタイトルの通り、その佐助を討つために奔走する人々の姿を描いた物語なのです。
時は1615年、大坂の陣の直後。既に天下に敵なしとなったはずの家康は、しかし大坂の陣で幸村とともに己を襲い、そして何処かへ消え去った猿飛佐助の存在に怯える毎日。家康のいる駿府を守る伊賀組(藤林党)は、総力を挙げて佐助の行方を追い、ついに彼の住処を包囲することに成功します。
しかし佐助の反撃により、一瞬のうちに、ごくわずかな生き残りを残して包囲網は壊滅。佐助は再び、闇の中へ――
本作の第一章のタイトルは「悪夢の猿」。この悪夢は、佐助の陰に怯える家康にとってのものですが、しかし佐助の持つ力は、彼と実際に対峙する伊賀組にとってもまさしく悪夢そのものなのであります。
そして本作の主人公となる若き忍び・壬生ノ数馬も、その悪夢に捕らわれた一人。仲間たちを失い、さらに佐助の周囲を探索していた祖父も惨殺され(包囲網に加わっていた数馬の前に祖父の首が降ってくるシーンはちょっとしたホラー)、それでも家康の厳命の下、佐助を追って闇の中を這いずることとなるのです。
そんな数馬の視点から描かれる本作は、佐助や、才蔵など他の生き残りの十勇士が超人的な力を見せるのと対照的に、あくまでも「普通の」忍びたちのリアルな姿を浮き彫りにします。
常人を超えた能力を持ちつつも、あくまでもそれは人間の域においての話。超人的な力を持つ相手にはただ蹴散らされるしかない――そして、それでも任務を捨てるしかない――忍びたちの姿は、どこか司馬遼太郎の忍者もの的味わいを感じさせます。
そのせいばかりではないかと思いますが――特に、雑誌連載の短編連作というスタイルの影響が大きいとは思いますが――本作はどこか体温が低く、有り体に言えば地味な印象が強くあります。
また、登場人物が多いわりに個性に乏しいキャラクターが多く、特に前半は名前と顔が一致しにくいというのも、正直なところではあります。
もちろんこれらは、「普通の」忍びを描く故のことであるかと思いますが、派手な忍者同士の激突を期待した向きには、残念に感じられたかもしれません。
それでも私が本作に惹かれるのは、終盤で描かれる大活劇や、その先に待つ伝奇的展開もさることながら、歴史に名を残した者を守るために歴史になお残した者たちと戦った、名もない忍びたち――今思えば、先に述べた忍びたちの個性の乏しさも計算の上なのでしょう――の姿に、ある種の共感を覚えるからであります。
権力に押され、武力・暴力に圧せられ――心身ともに深い傷を負いながらも、なおも生き抜き戦おうとする者たち。怒り・悲しみ・願い・誇り・希望…彼らの様々な想いを込めた叫びこそが「佐助を討て」というタイトルに込められたものであり、そしてそれがこちらの心を打つのであります。
そしてもう一つ、強大な者たちですら押し流される歴史の奔流にも屈しない、名もない人々のしたたかさというものも…
「佐助を討て」(犬飼六岐 文藝春秋) Amazon
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