「嶽神伝 無坂」下巻 掟と情と…そして新たなる物語へ
自分の里を失い凶賊と化した山の者により、また一つの里が滅ぼされた。無坂たちは北条幻庵の力も借りて敵を追う。一方、武田家の信濃攻略は、無坂の妹が嫁いだ里の者たちをも巻き込もうとしていた。彼らの身を案じて走る無坂だが、その行動は彼の運命を大きく変える。そして木暮の里に凶暴な敵が…
長谷川卓による新たなる山の者の物語、「嶽神伝 無坂」の下巻であります。武田家の信濃攻略は、それなりに平穏であった山の者たちの暮らしをも大きく動かしていくこととなります。
上巻で無坂の前に幾度か現れ、彼と死闘を演じた謎の賊。「長」たちの会議に出席した無坂は、彼らの正体が、雪崩により自分たちの里を失い、「渡り」となった山の者であること、そして彼らにより幾つもの里が滅ぼされていることを知るのですが…
まずここで作者のファンにとっては大いにテンションが上がることになります。
というのも、会議に出席し、そして無坂とともに「敵」への復讐を誓った面々というのが、「逆渡り」の四三衆の月草、「嶽神」の巣雲衆の弥蔵と、先行する作者の山の者もののキャラクターたち。これで七ツ家の二ツも登場したら完全にオールスターキャストであります(が…)。
もちろん彼らはあくまでもゲストではありますが、彼らも無坂と同じ世界に生きる者であると示されたことで、グッと作品世界に広がりが出たことも事実であり、そして何よりも嬉しいファンサービスであります。
しかし、無坂たちにとって、あくまでも復讐はイレギュラーな行動。この下巻においても、上巻同様、物語の大部分は、無坂たち山の者の暮らしを描くことに費やされるのですが…武田晴信の動きが、そんな彼らの生活にも大きな影響を与えることとなります。
人口の減少から山を離れ、上杉家に仕えることを決めた山の者・久津輪衆。そこに無坂の妹が嫁いでいたことから、無坂は彼らの先行きを案じるのですが…しかし、彼らは山を離れたことで、山の者との交流を禁じられた身。それが無坂の身にも大きな影響を及ぼすことになります。
山の者として、武士をはじめとする里の者たちの掟に縛られず、山野を駆ける無坂の姿は、一見極めて自由な存在に見えますが、しかし山の者にも掟が――時に、里の者よりも厳しく残酷な掟が存在します。
それはもちろん人を縛るだけのものではなく、守るものでもあるのは事実ではありますし、そしてそれこそが人と獣を分かつ道であるのかもしれませんが…
その情の深さの故に、掟に触れることとなった無坂。そんな彼の姿と並行して描かれる晴信の引き起こした無惨な戦の姿(そしてあくまでも真意は不明ですが、ある人物の意外な行動)は、果たして本当に人と呼ぶにふさわしいのはどちらなのか、我々に突きつけてくるのであります。
本作の結末に描かれる無坂たちとある「敵」の戦いは、その問いにさらに外部からの視点を交えたものと言えるかもしれません。
しかし結末には、ある意味そうした想いを吹き飛ばすような出会いが待ち受けています。 上田原の戦いの行方を知るため、戦場に向かった無坂が目撃したもの。それこそは――
未読の方のために伏せますが、なるほど、時代設定がほぼ重なるあの作品と本作は表裏一体であったのか、ともうニヤニヤするほかありません。
無坂とあの人物の出会いが何を生み出すのか…これはもう、今後の展開に大いに期待せざるを得ません。
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