「眠狂四郎殺法帖」上巻 奇怪なヒーロー、狂四郎がゆく
権力の座を巡り、激しく争う水野忠邦と水野忠成。眠狂四郎は、佐渡金山で行われた不正の証拠を巡る両者の暗闘に巻き込まれる。狂四郎がやがて知ったのは、忠成一派が、将軍家斉に麻薬を盛り、人事不省に陥らせているという陰謀だった。さらに一連の事件の影には、大商人・銭屋五兵衛の姿が…
眠狂四郎シリーズ第3弾は、激しく火花を散らす老中同士の暗闘と、加賀の大商人・銭屋五兵衛の陰謀を描く「眠狂四郎殺法帖」であります。
縁あって、西丸老中・水野忠邦の懐刀・武部仙十郎を後見人としている眠狂四郎。その依頼で、忠邦の上屋敷から消えた極秘の文書を探す狂四郎が見破ったその在処は、なんと将軍家お手付中臈の…
という、まことに眠狂四郎らしい趣向の「美女放心」から始まる、長編ストーリーであります。
長編と言いつつも、他のシリーズ作がそうであるように、むしろスタイル的には長編の各章が短編の形式となっている、と言うべき本作。
西丸老中と本丸老中の権力闘争の鍵を握、佐渡金山を巡る汚職と、それを探るべく散っていった幕府隠密を巡る謎、本丸老中一派と結ぶ銭屋五兵衛が巡らせる驚くべき陰謀、さらには事件の中で狂四郎に恨みを抱いた忍び一派との死闘――
メインとなるストーリーラインはもちろんあるものの、やはり印象に残るのは、切れ味鋭い、そして雅味すら感じさせる筆致で描かれた、眠狂四郎が出会う奇怪な事件、人間模様の数々でありましょう。
それにしても眠狂四郎というのは、実に奇怪なヒーローであります。
というのも、彼を構成する特徴の数々を説明することは容易くとも、彼の行動原理、依って立つところを――たとえば作品を全く未読の人間に――説明するのは、実は非常に難しい、のであります。
彼の基本は市井無頼の徒であるものの、先に述べたとおり、後見人の武部仙十郎の依頼があれば、将軍家のために剣を振るうこともある。
しかしもちろん、それはあくまでも彼が興味を覚えた場合に限るのであり、天下の権力や法などといったものに縛られるものではなく、むしろ平然と背を向けるものでもある…しかし、だからといっていたずらに弱者を苦しめる悪人でもなく、同時に女人を犯すのに躊躇うものでもない。
そんな狂四郎の複雑怪奇な行動は、本作においても遺憾なく描かれていると申せましょう。何しろ、本作のメインの流れにおいて、彼が謎解きに乗り出し、孤剣を振るう理由が、振り返ってみれば明示されているわけではない――ないわけではないが、通常の物語からすればあまりにも弱い――のですから。
冷静に考えてみればある意味恐ろしい話ではありますが、しかしそれこそが狂四郎らしい、と納得できてしまうのも、また事実なのであります。
明確に彼が行動原理を、その立ち位置を語ることはなくとも、彼の一挙手一投足が、雄弁にそれを物語る、我々を納得させる――ある意味、キャラクター小説の極みに達している感すらあります。
しかし、その魅力はもちろん、その狂四郎の活躍の舞台となる物語の、それを描き出す描写の妙があってこそ。本作で見れば、上巻後半の3連作――狂四郎を仇と狙うおばばによる残酷な復讐と、囚われの身になった狂四郎の苦境と脱出を描く一連のエピソードは、その一つ一つの要素が、大衆文学の妙と呼んで差し支えないほどの完成度として感じられるのであります。
特に脱出した狂四郎が追っ手との決闘に臨む場面など、彼自身が、少々芝居がかっていると自嘲するほどの美しすぎる決闘シーン。見事としか言いようがありません。
もっとも、その一方で「無頼控」ラストで壮絶な最期を遂げたはずの悪役が平然と登場していたりと(まあ、史実ではさらにその前に既に死んでいるのですが…)、粗もあるのもまた事実。
サブキャラクターが途中退場してしばらく登場しないなど困った点もあるのですが…それでも早く下巻を読みたくなる気持ちには変わりはない、そんな作品であります。
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