『決戦! 関ヶ原』(その三) 関ヶ原という多様性
関ヶ原の戦アンソロジー『決戦! 関ヶ原』の紹介も残すところあと二作品。残るは西軍の中でも(ある意味)最大の敗者ともいうべき二人の武将を主人公とした作品であります。
『真紅の米』(冲方丁)
関ヶ原で敗れて命を失った武将は幾人もいますが、最終的に勝者となった――いやそれどころかある意味最大の功労者であるにもかかわらず、不朽の(?)汚名を背負うこととなった武将はただ一人、小早川秀秋のみではないでしょうか。
フィクションの世界においても、最近は三成の再評価が進んでいるように感じられる一方で、秀秋を良く描いた、あるいは行動にそれなりの理を以て描いた作品はほとんどなかったのですが……その難事に挑んだのが本作であります。
本作で描かれる秀秋は、後世に伝わる暗愚さとは裏腹の、青年らしい進取の気概と聡明さを合わせ持った人物。
しかし晩年はほとんど狂気の如く周囲の人間、なかんづく親族を排除していった秀吉の目を逃れるため、暗愚を装っていた――それが本作の基本設定であります。
果たして自分は何者なのか。何が自分を生かしているのか。
そんな幼い頃からの歪んだ環境が生んだその想いを抱える秀秋は、戦の繰り返しではなく、実学を踏まえた国作りを基盤においた家康に共感を覚え、それが関ヶ原での行動に繋がっていくのですが……
「この人物は実は○○でした」というのは、どんな話も作れてしまう、ある意味反則に近いアイディアですが、本作はそこに秀秋の聡明さが向かった先として米――国作りの象徴として、そして何よりも人を活かす基ととして――を提示してみせることにより、不思議なリアリティを生み出しています。
言葉の使い方、文章の構造等、明らかに他のプロパー歴史作家と違うのも、また本作の、一種のリアリストとしての――そして現実が見えすぎるがゆえの彼の悲劇なのですが――秀秋像にはマッチしていると感じられるのです。
『孤狼なり』(葉室麟)
そして、家康を描いた『人を致して』始まった本書の掉尾を飾るのは、この戦の最大の敗者ともいうべき石田三成であります。
この戦の原因について、冒頭の『人を致して』が家康と三成の共謀説を描いたのに対し、本作はこの戦の背後で駆虎呑狼の計を巡らせていたある人物の存在を浮かび上がらせることとなります。
駆虎呑狼――豹に向かって虎をけしかけ、その隙に狼に虎の穴を狙わせる。己にとって邪魔となる者たちを戦い合わせて弱らせ、自らは利を得る。それを企んだ人物が誰であるか、そしてその先に何を狙っていたのか、もちろんそれをここでは語りません。
しかしその人物の立ち位置を、そしてこの戦での行動を考えれば、なるほどあるいは……と思わされるのであります。
幾重にも張り巡らされた糸に絡め取られ、「狼」として「虎」たる家康と戦うこととなった三成。その彼が最後の最後、親友とともに放った一手とは……
関ヶ原の戦最大の敗者が、戦の果てに狙ったものは何であったのか。人に操られることを拒み、誇り高き牙を剥き続けた「孤狼」の姿がここにはあるのです。
以上七編、これまで述べてきたように登場人物も設定も視点も異なる作品揃いですが、ここの作品のレベルの高さはもちろんのこと、その多様性こそが、関ヶ原の戦の(こういう表現はいかがなものかと思いますが)面白さをはっきり示していたと感じます。
実に17万の兵が激突した戦国最大の戦いたる関ヶ原。当然のことながら、双方の戦力の大きさは、そこに集った武将たちの多さをも意味します。
それぞれの理由から東西に分かれつつも、その中でも更にそれぞれの思惑を秘めて戦った武将たち。その多様性が生み出すドラマこそが、我々が関ヶ原の戦に魅力を感じる最大の理由なのではありますまいか。
そんな関ヶ原の戦の魅力を知るのに、本作は最良の一冊と申せましょう。
冒頭と巻末の作品のある意味対になった構成といい、折り込みの対陣/武将相関図といい、企画の巧みさも印象に残ります。
『決戦! 関ヶ原』(伊東潤ほか 講談社) Amazon
| 固定リンク
コメント