『邪神決闘伝』 夢法者に挑む《西部劇》の心意気
賞金稼ぎの「おれ」は、大西部の荒野で四人の無法者を追っていた。その一人目を倒した俺は、そこで出会った奇妙な術を使う日本人・シノビとともに、残り三人を追う。それぞれ奇怪な能力を持った彼らの正体は、海底に眠るクトゥルーの見た夢。それぞれの目的から敵を追うおれとシノビの旅の行方は……
ここしばらくの日本におけるクトゥルーものの隆盛を考えれば迂闊なことは言えないのですが、しかし、クトゥルー+西部劇というのは、少なくとも日本では空前絶後ではありますまいか。
そしてそれを書くのが、おそらく最も日本で《西部劇》を書いてきた作家、菊地秀行というのであれば、期待はいやが上にも高まります。
舞台となるのは1870年代(おそらくは1878年)、数々の銃豪が名を馳せてきた無法の時代……そんな大西部を一人さすらう賞金稼ぎの「おれ」こと「シューター」が本作の主人公であります。
当然のことながら(?)銃にかけては屈指の腕前の彼が追うのは、しかし、無限の連射能力や一度撃てば相手に当たるまで止まらぬ魔弾などいずれも奇怪な能力を持つ四人のガンマン。それもそのはず、彼らはルルイエで死するが如く眠るクトゥルーが見た「夢」。
もちろん「シューター」もまたただ者ではありませんが、かの大邪神が生み出した存在を前に、苦戦は不可避であります。
そんな彼と旅を共にするのは、ある理由から邪神の眷属を追って太平洋を超えてきた凄腕の日本人忍者シノビと、クトゥルーの生け贄として先住民の妖術師に付け狙われる人妻・ポーラ。
おかしな三人が立ち寄るのは、ダッジシティにトゥームストーン……とくれば、当然のことながら、ワイアット・アープにドク・ホリディ、そしてクラントン一家と、オールスターキャストで銃と忍法と妖術の死闘の数々が展開される、ということに相成ります。
……それにしても読む前に気になったのは、やはり西部にクトゥルーという取り合わせであります。
西部劇の舞台といえば見渡す限りの砂と岩山、転がる根無し草と、乾いた大地。水の邪神――というのは必ずしも正しくない解釈かもしれませんが、とにかく大洋の下に眠り、半魚人めいた「深きものども」に守られたクトゥルーとの組み合わせは、やはり……
などというこちらの疑問は百も承知ということか、ある史実を以て虚構を支えてみせるのは、さすがにこの作者ならでは。それどころか、思わぬ大物キャラまでぬけぬけと(もちろん誉めております)引っ張り出してくるのにはニヤリとさせられます。
最初に私は作者を、最も日本で《西部劇》を書いてきた作家と評しました。
パラレルワールドとはいえ大西部に新選組を放り込んでみせた『ウェスタン武芸帳』、近未来の日本を舞台にガンマンたちの活躍を描いた一連の近未来もの(特に西部から来た賞金稼ぎ・雷左門)、さらには舞台は遙かな未来、手にするのは長剣であっても、西部劇の精神を色濃く感じさせる『吸血鬼ハンターD』シリーズ……
いずれも直球のそれではなくとも、何とかして、愛する西部劇の世界を紙面に甦らせようという作者の想いの顕れであり――そして本作ももちろんその試みの一つ(そして実はおそらく最も史実に近い作品)なのです。
私は、西部劇の魅力の一つ(あくまでも一つ、ですよ)は、火花一つで吹っ飛ぶような命を的に、己の腕を信じて荒野にただ一人生きる者の心意気や感傷ではないか、と信じるものであります。
本作で描かれるのは、一発や二発の鉛玉ではピンピンしているような連中であり、主人公もまた、背後にとんでもない事情を抱えた人間ではありますが――しかし本作に漂う空気は、間違いなくこの心意気を伝えるものであると私は感じます。
そしてその心意気は、このクトゥルー・ミュトス・ファイルズに収められた作者の作品に通底する、人間vs邪神の真っ向勝負の精神と繋がることで、本作をより痛快な作品としているのであります。
シノビの存在が便利に使われ過ぎていること、「西部劇」的なキャラクター・ガジェットを数多く投入したために、かえってパロディ的味わいが強くなってしまったことなど、やはり不満がないわけではありません。
しかしそれすらも気にならない、というのはいささか信者めいたもの言いとなりますが、本作を貫く菊池ウェスタンの心意気に触れてしまえば、それが正直な想いでもあるのです。
『邪神決闘伝』(菊地秀行 創土社クトゥルー・ミュトス・ファイルズ) Amazon
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