『妖草師 人斬り草』(その二) 人の、この世界の美しきものを求めて
武内涼の『妖草師』シリーズ第2弾、『妖草師 人斬り草』の紹介の続きであります。人の世に芽吹いた妖草と戦う者たちの姿を描く本作、そのもう一つの魅力とは――
そのもう一つの魅力は、各話に登場するゲスト陣の豪華さでありましょう。
上に述べたとおり、本作に、本シリーズに登場するのは、蕭伯・大雅・若冲・源内・蕪村……いずれも綺羅星の如き顔ぶれですが、実はそこには一つの共通点があるやに感じられます。
それは、彼らがいずれも独特の美意識を持った、優れた文化人であること――そして実はその点が、『妖草師』という物語において、単なる賑やかしに留まらぬ大きな意味を持つのであります。
その点が最もはっきりと表れているのが、冒頭に収められた『柿入道』です。
恐るべき柿の妖木との戦いを描く本作において描かれるのは、重奈雄の、そして椿の戦う理由、求めるもの。
……それは一言で表せば、「この人の世の美しさ」であります。
人のネガティブな心性を養分とする妖草。当然、それとの戦いの中で、重奈雄はその心性と――人の世の暗黒面を煮詰めたようなものと否応なしに直面させられることとなります。
そんな中にあって、美しきもの――それはもちろん、単に美醜というに限らない概念ですが――の存在は、重奈雄の心の慰めとなることはもちろんのこと、この世から妖草を退ける、希望ともなるのであります。
それはまた、花道家たる椿にとっても大きく変わるところではありません。
花道が、人の手によって草花を用い、自然の美しさを切り出す、あるいは再現することにあるのであれば、その営みはそのまま、重奈雄と異なる形で妖草の存在を否定し、滅ぼすことにも繋がりましょう。
そして――先に述べた通り、本シリーズに登場するゲストたちが、いずれも「美」を求め、生み出す者たちであることも、まさにこの点に通じるのではありますまいか。
たとえ重奈雄のように、直接に妖草と――人の心の暗黒面の象徴と戦うことはなくとも、その美によって、椿のように彼らもまた、人の心の光を見せることで、間接的に戦っているのですから……
(そして本作が作者の作品の多くで扱われている戦国時代ではなく、江戸時代を舞台とするのも、その美を生み出す豊かな文化が芽吹いた時代である点によるのでしょう)
本作は、奇怪な妖草との戦いを、実在の人物を絡めつつ描いた、優れた時代伝奇小説であります。
しかしそれに加えて、本作で描かれるのは、この世界の、人間の善き部分の真摯な肯定であり、賛歌なのであります。
ある意味作者の作品の特徴ともいうべき、その生真面目さから来る青さ、生硬さは、本作でも感じられる部分はあります。
しかしそれとても、作品の根幹に根付いたものとして好ましく感じられる――本作はそんな作品であります。
『妖草師 人斬り草』(武内涼 徳間文庫) Amazon
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