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2015.08.01

高田崇史『鬼神伝 鬼の巻』 歴史の真実と価値観の逆転、しかし

 今から11年前に講談社の児童文学レーベルであるミステリーランドで刊行され、4年前にアニメ映画化された『鬼神伝』シリーズが、このたび文庫化されました。平安時代にタイムスリップした少年が、鬼と人との戦いに巻き込まれる中、意外な真実を知る冒険譚であります。

 転勤が多い親のため、なかなか転校先になじめず、孤独な毎日を送る中学生・天童純。下校途中に不良に絡まれ、馴染みのない京都の町を逃げ回るうち、彼はとある寺に迷い込みます。
 そこで出会った僧・源雲の法力によって、平安時代に送り込まれてしまった純。実は生まれつき胸に勾玉の形をしたあざがある純は、封印された雄龍霊(おろち)を解き放ち、鬼を退治すべく選ばれた者だというのであります。

 自分と同年代の少年である源頼光や、配下の四天王と知り合い、彼らとともに鬼と戦う純。雄龍霊の強大な力で鬼たちを打ち破っていく彼は、しかし鬼の少女・水葉との出会いにより、意外な真実を知ることになるのですが……


 突然異世界に放り出され、そこで選ばれし勇者として戦うことになった現代人というシチュエーションは、古今枚挙に暇がありませんし、何よりもライトノベルでは定番シチュエーションの一つであります。
 本作もその流れを汲むと言うこともできましょうが――、本作ならではの独自性は、何よりも、現実世界の過去(登場する人物を見るに、微妙に架空の世界なのですが)を舞台とすることで、現代に残る「事実」の背後の「真実」を描き出すことでしょう。

 そう、本作に登場する鬼――いわゆる角の生えた鬼のみならず、天狗や狐、もののけや妖怪たちも含めて――たち、人間の敵として語り継がれる彼らは、実はこの地の先住民、土着の神。
 そして仏の力を借りて彼らを滅ぼそうとする人間たち(朝廷の者たち)は、後から現れた侵略者であったのです。

 現代人として半ば当然の如く、鬼=悪と刷り込まれていた純は、水葉との出会いによってその真実、そして自らも鬼の血を引く者である(余談ですが、天童純という名が、酒天童子をベースとしていることは間違いありますまい)ことを知り、鬼の側に立って戦うことになるのであります。

 この辺りの、歴史に秘められた「真実」の提示と、それによる価値観の逆転というのは、作者の代表作であるQEDシリーズのそれを彷彿とさせるものであり、まさに自家薬籠中のものでありましょう。


 ……が、正直に申し上げると、今一つ食い足りない作品という印象が、本作にはあります。

 確かに、児童文学において、明確に鬼や妖怪たちと人の在り方の逆転を提示した作品は(特に人間側を侵略者としたものは)少ないかもしれません。
 しかしその一方で、そもそも児童文学の世界においては、人ならざるものが人に近しい存在(人と同様の感情を持つ存在)として描かれることは決して珍しいものではありません。

 そんな中で、一種の価値観の相対化を行うのであれば、それに説得力を与えるだけの物語展開が必要になるかと思いますが、本作はその点に不満があります。
 それは、主人公たる純の評価軸がないと申しましょうか――

 平安時代に放り出され、鬼と戦うようになったのは、前述のとおり現代人の価値観ゆえでありましょうが、いざ自分が鬼の側であると知れば、短い時間とはいえ共に暮らした頼光たちと戦うことに、強い葛藤を見せないというのは、違和感があります。

 いささか厳しい表現となりますが、襲ってくるから戦う、自分が(素戔嗚尊の子孫で)雄龍霊を操れるから戦うというだけの印象があって――そこに、強烈な価値観の相対化から生じるであろう驚きは弱いように思えます。


 もっとも、本作は続く『神の巻』と合わせて上下巻とも言うべき作品。『神の巻』において、いかなる回答が提示されるか……この違和感が払拭されることに期待しているところであります。


『鬼神伝 鬼の巻』(高田崇史 講談社文庫) Amazon
鬼神伝 鬼の巻 (講談社文庫)

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