富樫倫太郎『箱館売ります 土方歳三蝦夷血風録』上巻 箱館に迫る異国の大陰謀
蝦夷地に滞在していたロシアの秘密警察所属のザレンスキイは、蝦夷共和国樹立を機に、知人のプロシア人ガルトネルを動かし、ある陰謀を計画する。共和国の資金難につけこみ、順調に進むかに見えたザレンスキイの計画だが、共和国側に疑いを持つ者が現れる。その一人は土方歳三だった……
伝奇、戦国、ノワール、経済……と、様々な歴史時代もののサブジャンルで活躍してきた富樫倫太郎の作品中、近年最も多くの作品で活躍してきたのは、土方歳三であります。
いずれも箱館戦争を舞台とした『箱館売ります』『松前の花』『神威の矢』、そしてそのものずばりの『土方歳三』――
この四作品、それもいずれもかなりの大部の作品で主役級の活躍を見せる土方歳三ですが、その中でも前者の三部作は、舞台は共通ながら、それぞれユニークなアプローチで展開していくこととなります。
そしてその三部作の一作目と銘打たれた本作、その題材からして非常にユニークと言うほかありません。
その題材とは、いわゆるガルトネル事件――幕末から明治初期の混乱の中で、プロシア人ガルトネル兄弟が、蝦夷共和国と結んだ長期間かつ広大な範囲を対象とした土地租借を巡る一種の外交事件であります。
元々、幕末に箱館奉行の許可を得てわずか1500坪の土地から始まったガルトネルの租借。それが明治政府が設置した箱館府、そして蝦夷共和国と目まぐるしく箱館の統治機構が変わる中で、最終的にはなんと300万坪を99年間租借するという形となったこの契約を解除するため、明治新政府が相当に苦労した……
というのがあらましですが、本作はその背後にロシアの秘密警察を設定することにより、時代の境目におきた一種の珍事件を、国際的な陰謀事件にまでスケールアップさせているのが、抜群に面白いところであります。
戊辰戦争の混乱の中、フランスに代わり幕府側に食い込まんと工作を行っていた秘密警察の腕利き工作員ザレンスキイ。しかし想像以上に幕府があっさりと倒れたことから彼の計画は頓挫、このままでは失脚は必至となった彼の前に現れたのが、旧知のガルトネル兄弟でありました。
そこでガルトネル兄弟を使って起死回生の策をもくろむザレンスキイ。ガルトネル兄弟が租借した土地の使用権をロシア政府が譲り受け、ロシア念願の不凍港を極東に確保する――なるほど実現すれば、ロシアにとっては多大な利をもたらす計画であり、日本にとっては大きな窮地をもたらす大陰謀であります。
この陰謀に立ち向かうことになるのが土方歳三……と言いたいところですが、実は物語の中において、彼はワンオブゼム、事件に巻き込まれた数あるキャラクターの一人といった位置づけになります。
この辺り、「土方歳三」を謳ったサブタイトルに惹かれた向きには不満もあるかと思いますが、しかしこれは三部作に共通するユニークなアプローチと言えます。
実はこの三作は、いずれも一種の群像劇とでも言うべき作品。物語の骨格となる事件に巻き込まれた人々――共和国側、新政府側、あるいはそれと全く異なる立場の人々が、それぞれの立場から事件に挑んでいく様が描かれる……そんな作品群なのであります。
本作においても、土方や榎本・大鳥・人見といった蝦夷共和国の人々のほか、新政府へのクーデターを企んだために身を隠していた硬骨の軍学者・平山金十郎が主役格のキャラクターとして登場。
さらに彼の弟子でありつつも道を違え、国の安定のために新政府を奉ずる斎藤順三郎を配置し――さらに言ってしまえば、ザレンスキイの視点も大きな位置を占めて――物語は展開していくのであります。
とはいえ、その中で土方が大きな存在感を占めるのは言うまでもありません。
本作の土方は、新選組時代のイメージとはいささか異なる、物静かで、(政治まわりにおいては)周囲から一歩引いた感のある人物として描かれるのですが、しかしこれが実に「その後」の土方らしくて良い。
武士として己の死に場所を求めつつ、決して自暴自棄にはならず恬淡と生きる。そんな大人の土方らしさが実に格好良い一方、モチ焼き職人のように丁寧にモチを焼く姿が描かれたりと、硬軟とりまぜた土方像は、出番こそ多くないものの、ファンも満足できるのではないでしょうか。
そして物語はこれからが本番。ザレンスキイの陰謀を察知しつつある土方が、平山が斎藤が、いかにこれに挑むのか……期待は大きく膨らむのです。
『箱館売ります 土方歳三蝦夷血風録』上巻(富樫倫太郎 中公文庫) Amazon
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