渡辺仙州『文学少年と運命の書』 物語の力を描く物語
恥ずかしいことに、これまで読んでいてしかるべき作家と作品を読み逃していることが、未だにあります。児童版の『三国志』や『封神演義』等、中国ものを中心に活動してきた作者が、中国の明代を舞台に描いた本作もその一つ。物語とそれが持つ力を巡る、心躍る冒険ファンタジーであります。
本作の主人公は、本と物語をこよなく愛する少年・呉承恩。その頭の回転の速さと記憶力により、父からは科挙を受けて役人になることを望まれながらも、本人は文を売って生きていきたいと考えている――すなわち、本作のタイトルの「文学少年」であります。
そんな彼が父との旅の途中で出会ったのは、一人のみすぼらしい幼い少女・玉策。腹を空かしている彼女に食べ物を恵もうとした承恩ですが……しかし彼女の食べ物はなんと書物!
しかも食べた書の内容は決して忘れず、そして書いた者の過去と未来を知ることができるという力を、彼女は持っていたのです。
彼女に父の商売の帳簿を食べられてしまった承恩は、やむを得ず彼女とともに暮らし始めるのですが、本が一般的ではない時代に彼女の食べ物を手に入れるのは一苦労。
ここで玉策はその力を生かして占いを始めるのですが、その存在が皇帝に知られたことで都に来るよう強いられることに。さらに彼女を狙い、何やら怪しげな賊までもが……
実は彼女の正体は、泰山山頂の金篋(金のはこ)の中に納められた、全ての者の生死を記しているという禄命簿――すなわち「運命の書」。ある目的から禄命簿を求める賊によって金篋が壊されたことで、現世に少女の姿で彷徨い出たのであります。
かくて玉策の正体を知った承恩は、彼女を守るために奮闘するのですが、彼らに迫るのは武術自慢の山賊に、都にその人ありと知られた将軍、その子飼いの美貌の暗殺者。
果たして承恩と玉策の運命は……
我々が中国ファンタジーに求めるものはそれは様々かと思いますが、その一つは、中国の悠久の歴史に根付いた、恐ろしくもどこか可笑しく、魅力的な怪異の存在ではないでしょうか。その意味では本作の玉策は、恐ろしさはともかく、実に個性的かつ魅力的な存在でありましょう。
その外見どおりに無邪気でわがまま、天真爛漫に承恩を振り回しながらも、しかし心の中にはこの世に生きる者への深い優しさを秘めた玉策――
最初はそんな彼女に反発しつつも、やがて彼女と心を通わし、そして彼女を通じて(彼女にとって面白い=美味しいなのであります)物語を記すことに喜びを感じる承恩とは、まさに好一対、実に微笑ましい二人のやりとりは、本作の見所の一つでありましょう。
しかし、本作の魅力は、そうした物語(ストーリー)自体のそれに留まりません。
本作は、物語の物語、物語のための物語なのですから……
実際のところ、本作で結構な割合を占めるのは、承恩と他の登場人物との会話の中での物語に関する蘊蓄であり、物語論であります。
この辺りは正直に申し上げて、児童書のそれとは思えない題材と情報量であり、苦手な方もいるのではないかと思いますが、私のような――承恩の書痴ぶりに限りない共感を抱いてしまうような――人間にはまさに「大好物」なのですが……
それはさておき、本作における物語論――すなわち物語はいかに成立し伝えられていくか、そしてまた物語の持つ力とは何か――は、単なる蘊蓄で終わることなく、本作の終盤の展開に大きな意味を持つことになります。
物語は現実の中で生まれ、育ち、そして現実に様々な影響を与えていくことになります。その影響が物語の力だとすれば、それは決してポジティブなものばかりとは限りません。
本作の終盤で、ある人物が玉策を使って企む行為は、その物語の持つ力の危険性、負の側面の現れでありましょう。
いや、本作で玉策を巡って起きる争いは、その意図はともかくとして、その物語の負の側面に囚われたものであると言えるかもしれません。
それでも――物語には必ず正の力が、人を幸せにする力がある。承恩と玉策が力強く謳い上げるのはそんな単純な、しかし心温まる真実。
そして結末でさらりと語られる承恩のその後は、(今では否定的な意見が強いようですが、それすらも本作はさらりと流している)彼の書いた物語が今なお生きて語り継がれていることを思えば、強く心を打つのです。
魅力的な中国ファンタジーであると同時に、優れた物語の物語である――本作はそんな愛すべき物語であります。
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