山田正紀『桜花忍法帖 バジリスク新章』上巻(その二) 人間性を否定する者への怒り
山田風太郎の『甲賀忍法帖』を、せがわまさきが漫画化した『バジリスク』、その新章を山田正紀が書く『桜花忍法帖 バジリスク新章』上巻の感想の続きであります。山田対山田の様相を呈する本作、しかしそこには一見、前作のファンにとって、大きな壁があるようにも感じられます。
そう、『甲賀』の、『バジリスク』の熱心なファンであれば、本作の中核となる設定は、ある意味許すべからざるもの、聖典を冒涜するものと感じられるのではありますまいか。忍者でありつつも、それと同時に人間であることを全うした二人の生を汚すものであると。
事実、ネット上ではそうした感想も見られるところではあり、その点は大いに頷けるところではあるのですが――その想いもまた、作者の狙ったところではないかと感じます。
先に述べたように、人間を競走馬か何かのように、あくまでも血脈と能力だけに目を向けた扱いを取る者たち。その第一の犠牲者とも言うべき両親から生まれた二人もまた、あまりに無惨かつ人間を人間とも思わぬ者たちに、その運命を弄ばれているのであり――そこに怒りを覚えぬ読者はいないでしょう。
そしてその怒りはそのまま、先に述べた、『バジリスク』の結末を冒涜した怒りと重なるものであり――ここにその怒りは一種メタフィクショナルな形で立ち上がってくるのであります。
……さらに、人を人とも思わぬ存在は、二人の運命を弄ばんとする者たちだけではありません。まさしく超人の力を振るう成尋衆――彼らもまた、その力に相応しく、人間を人間とも思わず、その運命を弄んで恥じぬ者たちであります。
そして彼らに抗する本作の真の代表選手たちが、どうにも忍者らしくない、人間臭い忍者たちであり、そしてその頭が「純愛」というある意味極めて人間的な感情を胸に抱く二人であることを思えば――
本作の構図は、人間性を否定する者と人間の戦いと呼べるのではないか、そしてそれは、本作のみならず、作者の作品に通底する構図ではないかと感じられるのです。
もちろんこれはファンの深読みかもしれません。この点を抜きにしても、本作の終盤で見られる対決の構図は、胸躍るものがあります。
甲賀と伊賀、それぞれの最強の忍者たちが敗れた後に残された十人の男女。数の上では倍であっても、その力の差が歴然とする相手に如何に彼らが挑むのか?
ここにあるのは、山風忍法帖のパターンの一つ、『柳生忍法帖』や『風来忍法帖』、あるいは『忍法八犬伝』に通じる、素人たちが強大な敵に挑むスタイルの物語ではありますまいか。これは期待せざるを得ません。
そしてその戦いの中で、「桜花」が如何なる役割を果たすのか――忍法帖のオマージュに留まらず、そこから踏み出す鍵はそこにありましょう。
山田風太郎の生み出した作品を、山田正紀が超えられるか……もう一つの戦いにも注目いたしましょう。
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