加藤廣『信長の棺』 信長終焉の真実と記述者の解放と
信長が上洛する直前、側近の太田牛一は、信長から厳重に封印された五つの木箱を託された。しかし信長は本能寺の炎に消え、以来牛一も秀吉の下に心ならずも仕えることに。時は流れ、老境を迎えた牛一は、信長の伝記執筆に着手する。それは、行方知れずの信長の遺体探しの旅の始まりでもあった……
加藤廣の歴史小説デビュー作にして出世作、後にドラマ化されるなど、相当に話題になった作品であります。
およそ戦国時代……いや日本史上最大の謎たる本能寺の変を扱った作品はほとんど無数にあり、そしてその謎解きもまた同様でありますが――本作の、本作ならではの工夫は、探偵役を太田牛一に設定したことでありましょう。
太田牛一――元々は弓術に優れた武人でありつつも、文の道にも優れ、やがて信長の吏僚として行政を担当し、信長の死後は秀吉にも同様に仕えた人物。しかし彼の名を後世にまで残したのは、信長の伝記である「信長公記」の著者としてでしょう。
信長の生涯を克明に記し、現代においても第一級の史料として知られるこの伝記の著者は、なるほど、信長の死を巡る謎を追う者として、これ以上の適任はおりますまい。
その牛一を主人公とする本作は、本能寺の変、すなわち信長の死から秀吉の死までの期間を舞台として描かれます。
変の直前、信長から厳重に封印された重い五つの木箱を預けられていた牛一。信長の上洛の目的と密接に関わるというその木箱は、しかし用いられることなく歴史の闇に消えた……という冒頭部からそそられますが、この先の物語はさらに波瀾万丈であります。
時は流れ、ようやく隠居の身となったのを利用して、信長の伝記執筆に全力を注ぐことを決意した牛一。しかしその伝記に不可欠なのは、あの本能寺の変の謎解きと、何よりも、彼がいまだに崇拝する信長の遺体の在処を探し出すことでありました。
ある意味これ以上はない動機で謎を追う牛一ですが、しかしその前に幾度となく現れるのは、いまや天下人にして、先日までの主君である秀吉の影。
そもそも、何故秀吉が中国大返しなどという離れ業を成功させたのかという疑問に加え、信長が天下に躍り出るきっかけとなった桶狭間の戦においても、秀吉の影が見え隠れいたします(この辺りは先日紹介した『空白の本能寺』参照)。
さらに、牛一の『信長公記』に執拗に手を加えて信長の負の部分を描かせ、そしてその一方で、信長の遺体探しに隠れた、しかし異常な執念を燃やす……ある意味、本作の影の主役と言えるかもしれません。
さて、そんな本作は、ジャンルとしては歴史ミステリということになるかと思いますが、正直に申し上げれば、ミステリとしては少々粗い……というより、純粋なミステリとは、少々ずれた作品のように、個人的には感じます。
もちろん、謎解きが本作の最大の眼目であることは間違いありませんし、伝奇性豊かなその真相も、実に興味深いものであります。しかしながら、謎解きの多くは偶然の出会いによるものという印象もあり、また信長の死の真相が、一人の人物の口から全て語られてしまうのも、いかがなものかと思わなくもありません。
しかしながら、本作は歴史ミステリに加えて、もう一つの側面を持ちます。それは、記述者としての、いや一人の男たる牛一の物語であります。
武から文へその道を変えつつ、その青春を、壮年期を信長の傍らで過ごしてきた牛一。その信長の生涯を記し、そしてその終焉の真実を見届けることは、彼自身の生を振り返り、再確認することにほかなりません。
本作は、そんな牛一の旅路を丹念に記すのであり、「信長公記」と信長の遺体の行方と、彼自身の晩年が重なり合い――その向かう先を平然と利用し、ねじ曲げようとする者とのさらなる物語を生み出していく姿は、なかなかに読ませるものがあります。
(それだけに、彼が若い女性と結ばれる展開には、苦笑せざるを得ないのですが)
しかし、その旅路の果てに彼を待っていた真実――この『信長の棺』という見事なタイトルに象徴されるそれは、彼の中の信長への想いに一つの決着をつけるものでありました。
いわば本作は、信長に取り憑かれた一人の男を描きつつ、彼が信長から解放される過程を描く物語でもあり……そしてその姿があればこそ、謎解きの面白さ以上の味わいを、読後に残してくれるのであります。
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