松尾清貴『真田十勇士 5 九度山小景』 寄る辺なき者たちと小さな希望と
天下に挑む真田幸村と勇士たちの戦いを描いてきたシリーズ第5弾の舞台となるのは、サブタイトルのとおり九度山。関ヶ原で西軍が敗れ、守るべき地を奪われて九度山に幽閉されることとなった幸村の胸に去来するものは……そして幸村の前に、もう一人の勇士(?)が姿を現すこととなります。
上田城の戦ではさんざんに徳川の本隊を翻弄し、結果として家康の天下取りを阻んでみせた幸村。しかしその直後に行われたもう一つの合戦……ついに現世に復活した百地三太夫との対決には完全な敗北を喫した幸村は、失意のままに九度山に流刑となるのでした。
というわけで、三太夫との決戦を描いた第一章を除けば、本作の物語は、ほとんど九度山において展開することとなります。
関ヶ原から大坂の陣に至るまでの十数年間を九度山で過ごすこととなった幸村。この期間、ほとんど外界から隔離されることとなった彼には、少なくとも史実の上では、父・昌幸の死を除けばさしたる出来事もなく、語るべきこともほとんどないように見えますが――
しかし本作ではその一種空白の日々を送る幸村の姿を描き出します。淡々と容赦なく、もの悲しくもどこか美しく。
本シリーズ独自の概念として描かれてきた、「真田」と「天下」の対峙。それは言い換えれば、真田が依って立つ故地、武士が守り受け継ぐべき「一所」と、それを否定し均質化した末の概念ともいうべき「天下」の対決であったと言えます。
それ故に「天下分け目」の関ヶ原ではなく、あくまでも真田の一所たる信州上田に籠もった幸村ですが……その結果、彼は守るべき「一所」を失ったのであります。
己を己たらしめる一所を失い、さりとて天下に身を寄せることもできず、いわば幽閉されながらもさすらい人となった幸村。そんな彼の姿を、本作はあるキャラクターを通じて描き出します。
それは由利鎌之助……後世に言う真田十勇士の一人、そして本シリーズにおいては最後にその名が登場した勇士となります。
その名が、と書いたのは、彼の姿自体は以前に登場していたからにほかなりません。かつて三成が家康暗殺を狙った際に才蔵の前に現れて死闘を繰り広げた鎌使いの少年……それが彼だったのです。
今また、徳川の刺客として幸村の前に現れた少年。彼は名前もなければ記憶も感情もない、そして成長もなく年をとることもない、永遠の少年……ただその刹那に鎖鎌を振るい、殺戮を繰り返すのみの存在だったのです。
(そして終盤で語られるその正体には、全てが周到に張り巡らされた伏線として機能する本シリーズの凄みを再確認させられます)
しかしその少年の中に幽かな人間性を認め――あるいは期待して――「由利鎌之助」の名を与え、家族として遇する幸村。そしてその幸村と鎌之助は、奇妙な相似形を描くように感じられるのです。
もちろん、姿形は人であれど、その内面は常人とは遙かに異なる異形とも言うべき鎌之助と幸村は、全く異なる存在ではあります。
しかし名前も記憶も持たない、すなわち過去も未来もなく、ただその瞬間にここに在るしかない鎌之助。それに対して一所を奪われてただ九度山で朽ち果てるしかない幸村。この二人にどれほどの違いがあるのか?
ともに寄る辺をもたず、それでいて終生一箇所にに囚われたさすらい人として、彼らは等しい存在なのではないか……本作はそれを容赦なく描き出すのです。
しかし本作は同時に彼らの姿を通じ、小さな疑問を描き出します。人間の守るべきものは本当に「一所」のみであったのか。そしてそれを持たぬ者・失った者は、本当にこの世において寄る辺ない存在なのか……と。
その答えを握るのは、彼らの周りに集った人々――勇士たちであります。
一人一人が寄る辺を失い、一度は人たることを否定されてきた勇士たち。そんな彼らが今なお幸村の下に在るのは何故か。そして殺戮機械ともいうべき鎌之助が、幸村らとの暮らしの中で静謐を保っているのは何故なのか。
今は幽かにしか見えないその答えこそは、おそらくは家康による、そして三太夫による「天下」が始まろうとする今、最後の希望となるのではないでしょうか。
しかし最後の決戦はもはや目前。果たしてそれまでに彼らがそれを知ることはできるのか――
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