六本木歌舞伎『座頭市』 奮闘、海老蔵&寺島しのぶ しかし……
この20日までEXシアター六本木で上演されていた六本木歌舞伎の『座頭市』を観ました。座頭市を演じるは市川海老蔵、二人のヒロインを演じるのは寺島しのぶ、そして脚本はリリー・フランキー、演出は三池崇史と、異色の歌舞伎であります。
舞台は六本木温泉宿場町、時は江戸時代――それも、史実よりもずっと長く続いた(おそらくは現代に近くまで)江戸時代。
この六本木に流れ着いた盲目の男・市は、放浪の按摩は表の姿、実は凶状持ちで莫大な賞金をかけられた侠客でありました。
そんな市が出会ったのは、宿の女中として懸命に働く盲目の少女・おすずと、江戸随一の花魁・薄霧太夫。特に薄霧は市の危険な香りに強く惹かれるようになります。
しかし町を牛耳る六樽組の親分・権三は、市を危険視し、六樽組の用心棒である狂剣士・風賀清志郎らに抹殺を指示。陰謀を察知した薄霧は、市を連れて町を抜けようとするのですが――
というこの歌舞伎、物語的には上の概略がほとんど全てと、非常にシンプル。流れ者が土地を牛耳る顔役と対決、ヒロインと別れて再び旅立つ……というのは、流浪のヒーローものの定番ではありますが、相当にあっさりした内容ではあります。
が、その分、存分に見せてくれるのは、海老蔵と寺島しのぶの演技合戦なのです。
海老蔵の座頭市というのは、坊主頭がトレードマークの一つであるだけに、コロンブスの卵的なビジュアルですが、これがなかなかにはまっている印象。
本作の市は、一般的な座頭市のイメージに比べれば若くまた格好良すぎるようにも見えるのですが……しかしその無頼さ・慇懃さ・無愛想さ・人懐っこさ・真摯さ・洒脱さetc.といった、相反する要素が入り混じったキャラクターは、海老蔵という役者自身のイメージとも重なって、本作ならではの座頭市像を生み出していると感じます。
特に冒頭、なんとTシャツにスウェットという姿で現れ、本水を被りながら立ち回った後で、コンビニのビニール袋を片手にタオルで顔を拭い、袋から取り出したモンキーバナナをつまらなそうに頬張る姿は、「今の」座頭市像として、一気に心を掴まれました。
(その後、早変わりで真っ赤な衣装に着替えるのですが、これはこれで格好良い)
そして対する寺島しのぶですが――梨園の名門に生まれながらも、女性という理由で歌舞伎役者になれなかった彼女にとって、「歌舞伎」の舞台は夢だった、と思ってもよいでしょうか。
薄霧の情念に満ちた役どころはお得意のそれかと思いますが、しかしむしろ舞台の上でのはっちゃけぶりが凄まじく、海老蔵との濡れ場はほとんどアドリブで無茶なネタの連発ですし、後半には歌謡ショー(!)まであったりと、大暴れであります。
二役で演じた少女・すずの方はうって変わって可愛らしい役どころですが、舞台上での二人の早変わりも楽しく、実に楽しそうに舞台上を走り回っていたのが印象に残ります。
しかし――舞台全体として見れば、正直なところ、この二人の奮闘ぶりが全てという印象であります。
上で述べたとおり物語としては相当に薄い本作。2時間と比較的短いためもあるかもしれませんが、その時間の多くがアドリブに割かれた印象で、二人を除けば辛うじて印象に残るのは、市川右團次演じる清志郎のみ。
そもそも、基本的に市はただ六本木にやって来て普通に過ごしているだけなのに、一方的に薄霧や六樽組がエキサイトして彼に絡んだ末に、自滅していくのですから……
終わらない江戸時代という舞台設定も、有効に利用されていたのは先に触れた冒頭の市の姿くらいで、「今」の物語としては突っ込み不足でありました。
しかし何よりも驚かされたのはクライマックス。死闘の末に辛うじて清志郎を倒した市。しかしその時、周囲がにわかにかき曇り、倒されたはずの清志郎が不気味な姿で復活。そしてその背後から現れる、巨大な怪物・鵺――
いやはや、座頭市と怪物が戦う話は初めて見ましたが、普段であれば大好物の要素も、何の伏線もなく突然出てくれば、夢でも見たかと思うほかありません。
(鵺の造形が結構良かっただけに残念)
ラスト、市にとって美しいもの、純粋なものの象徴であるはずのすずが……という苦い結末は良かった(「厭な渡世だなァ」という台詞も納得)だけに、尚更、そこに至るまでが残念に感じられた次第です。
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