上田秀人『危急 辻番奮闘記』 幕府と大名と町方を繋ぐ者たちの戦い
辻番といえば江戸の治安維持のために武家屋敷周辺に置かれた、現代の交番のような存在。その辻番が奮闘とは、作者には珍しい市井に近い主人公の物語なのかな? と思いきやさにあらず、辻番を主人公としつつも幕府と外様大名の暗闘の物語でもあるという、実にアクロバティックな作品でありました。
未だ戦国の気風が完全に消えやらぬ中で勃発した島原の乱。九州から遠く離れた江戸においてもその影響は小さくなく治安は悪化、辻斬りが横行することとなります。
そんな中、和蘭陀商館を抱える平戸藩松浦家は、幕府に対するポイント稼ぎのため(そして幕府の不信の目を逸らすため)、辻番を強化することで江戸の治安維持への貢献をアピールしようと考えます。
かくて新たな辻番の一人に選ばれたのが、本作の主人公というべき青年武士・斎弦ノ丞ですが――着任早々、彼は隣の島原藩松倉家の前で、二派に分かれた武士たちの斬り合いに遭遇することとなります。
乱戦の中、仲間の一人が弦ノ丞らに捕らえられ、自害したのをきっかけに姿を消す謎の武士たち。その一人は、お家が大事ならば首を突っ込むなと、弦ノ丞たちに言い捨てるのでした。
なるほど、お家を守るために余所の面倒ごとにはできるだけ関わらないのが江戸の武士。ましてや松倉家はまさに乱の原因を作った家だけに、裏に何があるかわかりません。
お家大事と、町奉行所の追求もそらっとぼける松浦家の面々ですが、しかし思わぬ状況の変化から、弦ノ丞たちは老中・酒井雅楽頭の命を受けて事件の真相を探ることに――
冒頭で述べたとおり、辻番は江戸の街角の監視役。といっても、本作から百年ほど後の時代では運営は町人に全て委託され、その結果、番とは名ばかりのガバガバのザル状態となったことからも察せられるように、武士が熱心に力を入れるようなお役目とは言い難いものがあります。
藩命とはいえ、そんな役目に就かされる弦ノ丞たちも災難ですが、さらにそこに、藩の浮沈を賭けた(幕府のお偉方との取引による)裏の任務まで加わって……という展開は、彼には申し訳ないものの実に面白い。
それにしても、外様大名家の下級武士の涙ぐましい奮闘記が描かれるかと思いきや(それはそれで間違いではないのですが)、あれよあれよという間に物語はスケールアップし、幕府と外様大名、外様大名と外様大名、果ては老中と老中の間の暗闘に繋がっていくのですから、大いに驚かされました。
いや、冷静に考えてみれば、この辻番という存在は、幕府と大名、大名と大名(あるいは旗本)、そして大名と町方を繋ぐ存在であります。
その点からすれば、こうした物語の連鎖は、十分あり得ることなのかもしれませんが――しかしこれまで幕府や大名家の様々な役目を題材としてきた作者ならではの離れ技というほかありません。
そしてまた、上で述べたように、辻番は町方とも繋がる役目であることもあり、その治安を守る存在――町奉行所が大きなウェイトを持って登場するのも面白いところであります。
江戸市中の治安維持に責任を持ちつつも、諸大名家の内側は管轄外の彼ら。しかしそれでもおかしな事件があれば、何とか解決の糸口を掴むべく食らいつく……
という奉行所の存在は、善良な市民であれば頼もしいところですが、後ろ暗いとまでは言わないものの、色々と事情を抱えた人間にとっては迷惑で仕方ありません。
そう、本作における町奉行所の役人――その代表であるベテラン与力・相生は、事件に巻き込まれ、そして巻き込まれたことを隠そうとする弦ノ丞たちにとっては迷惑極まりない存在。
彼の執拗な追求を如何に避けるか、その辺りもなかなかサスペンスフルなのですが――しかしこの相生の立ち位置にも一ひねりあって、通り一遍の人物造形に終わることなく、上田作品では少々珍しい立ち位置となるのも、ユニークなところであります。
そして奮闘の末、ひとまずは窮地を切り抜けた弦ノ丞と松浦家。本作の物語はこの一作できっちりと完結しているのですが――しかし数多くの人々を繋ぐこの辻番という存在を、この一作限りで手放してしまうのは何とも勿体ないように思われます。
ラストの一文も意味ありげで、まだまだ弦ノ丞に、相生に活躍してもらいたい……そんな期待も抱いてしまう作品なのであります。
『危急 辻番奮闘記』(上田秀人 集英社文庫) Amazon
| 固定リンク