北方謙三『岳飛伝 八 龍蟠の章』 岳飛の在り方、梁山泊の在り方
北方大水滸伝の最終章も折り返し地点間近、史実を離れて南宋に処刑されなかった岳飛の戦いが、いよいよここから始まることになります。同盟を結んで梁山泊に当たらんとする兀朮の金と秦檜の南宋が暗躍し、海上で、南方でいよいよ戦いの火蓋が切って落とされる中、岳飛と梁山泊がついに……
国家と民族を巡る考え方の違いの末に秦檜と対立し、処刑されるところを、梁山泊の助けで南方に逃れた岳飛。元・岳家軍の兵たちが集まり始める中、彼は再起に向けて動き出すことになります。
といっても初めはたった二人で始めた新生岳家軍、兵は集まっても彼らを食べさせ、備えさせるには先立つものが――ということで、軍閥として立っていた頃からは考えられない苦労をすることとなった岳飛たちですが、しかし梁山泊の、地元の住民たちの、そして友人とも仲間とも言うべき大商人・梁興の助けで、その力を蓄えていくことになります。
しかしそんな中でも中原での状勢は刻一刻と変化し、宿敵であったはずの金と南宋の同盟は秒読み状態。それぞれに北と南にまつろわぬ国を抱えながらも同盟を結んだ両国の敵は、もちろん梁山泊であります。
そんな中、日本からの帰路で遭難した梁紅玉を張朔の船が救助したことから、勝手に瞋恚を抱いた韓世忠が、半ばそれを口実に王貴の船を襲撃(また襲われ役……)。小規模とはいえ、ついに南宋と梁山泊の水軍の間の戦いの火蓋が切って落とされることになります。
一方、国力増強のために南方を傘下に治めんとする秦檜の命により、南宋軍が阮廉の村を襲撃。新生岳家軍はこれを完膚なきまでに打ち払ったものの、もちろんこれが第一歩に過ぎないことは言うまでもありません。
かくて梁山泊と南宋、さらに金との間が一触即発となる中、その最前線とも言うべき南方では、ついに岳飛と秦容が対面することに……
というわけで、いつまでも岳飛の生存に驚いている場合ではなく、いよいよ風雲急を告げる物語。岳家軍と金の全面対決が終結して以来、しばらく大きな戦が描かれなかったこの物語ですが、束の間の平穏はついに破られることとなります。
と言ってもこの巻で描かれるのはまだまだ局地戦も局地戦――小競り合いというか、感触を探る程度に過ぎないレベルであります。本気になれば数万、数十万単位のぶつかり合いとなる、国と国との戦いにはまだほど遠い状況ではあります。
しかし戦いそのものもさることながら、そこに至るまでに、各所で蓄えられた力がグツグツと煮えたぎっていく様がまたたまらないのは、これまで同様。致死軍が思わぬ形で金に食い込めば、ほとんど唯一それに気付いた蕭炫材がこれに抗しようとし――というくだりなど、初期の梁山泊の戦いを思わせてくれます。
そして山岳戦という思わぬ形で活路を見出そうとする岳家軍の特訓も続き、全面対決が始まった時に何が起こるのか、楽しみになるばかりなのであります。
しかし――この巻のハイライトは、別のところにあります。
中原を漢民族の手に取り戻すために戦ってきた岳飛。しかし故国であったはずの南宋に命を奪われかけ、南方に落ち延びてきた彼に、これまで同様の戦いができるのか。何を戦いの目的とすべきなのか――その答えが、彼とも梁山泊とも関係の深い梁興の口から語られることになります。
梁山泊が水だとすれば、おまえは器を作ればいい。器が良ければ水はその中にきれいに収まる――と。
その一方で、秦檜は南宋を器にし、同時に水にしようともしているという評も興味深い。
これまで何となくわかっていたようで、明確に示されていなかった三者の在り方の違いが、彼らのことを深く知りつつ、独自の距離をおく梁興の口から語られるというのは、これは見事な構図と感じさせられます。
ここに金が加わった四者の戦いで、その関係はどのように変わっていくのか。既に一種の概念となった梁山泊を、岳飛は見事に受け止めることができるのか――いよいよ物語は中盤、戦いの始まりの時であります。
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