北方謙三『岳飛伝 九 曉角の章』 これまでにない戦場、これまでにない敵
全17巻の折り返し地点を超えた北方『岳飛伝』第9巻。これまで一時の平穏を保っていた中華――いやその周辺を含めた世界ですが、ここに来て梁山泊を中心に一気に戦いの火蓋が切って落とされることになります。しかしその戦いの様相は、これまでとは少々違ったものとなることに……
淮河を境界に、にらみ合う形となった金と南宋。緊張を孕みつつも一種の膠着状態となっていた両国にとって共通の敵は梁山泊。
梁山泊を領内に抱える金と、梁山泊とはいわば宿敵の間柄の南宋と――まずはともに頭痛の種である梁山泊を潰すために、両国は密約を結ぶことになります。
そしてその密約を踏まえてまず動き出したのは南宋であります。
韓世忠率いる南宋水軍は、前巻の時点で既に梁山泊の交易船を襲撃したものの、これはあくまでもジャブのようなもの。彼の水軍による梁山泊の海上の拠点・沙門島攻めにより、梁山泊第一世代の一人が命を散らすことになります。
一方、秦容が順調に開拓を続けてきた南方では、開拓の中心であった甘蔗園が、そして新たな形の街である小梁山が、奇怪な武器を操る謎の敵の襲撃を受け、多大な犠牲を出すことに。
さらにこれらと期を一にして梁山泊に迫る兀朮率いる金軍本隊。北で、南で、海上で、様々な形と規模で、三つの国の戦いが始まったのであります。
というわけでついに本格開戦となった第9巻ですが、しかし戦いの様相はこれまでの戦いとはいささか異なるものとなっているのが目を惹きます。
何しろ、水軍同士の戦いといっても、河や湖ではなく、海の上での話。この戦いの始まりとなった沙門島攻めは格別、普段の戦いは広い海上で、遭遇戦の形で繰り広げられることとなります。
さらに水軍にとっては船以上に人が――経験を積んだ水夫が――重要。さらに当然ながら船の存在も欠かせないことから、いきおい戦いは総力戦という形にはなりにくいのであります。
そして南方の戦いですが――こちらはそれ以上にこれまでと全く異なる戦いと言ってもよいかもしれません。
何しろ、秦容たちの入植地を襲うのは、グルカ兵を思わせる高地民族の傭兵。ブーメランのような飛刀を操り、尋常ではない運動能力を持つ彼らには、奇襲を受けたとはいえ、梁山泊の兵たちも大いに苦しめられることになるのであります。
これまでにない戦場、これまでにない敵――物語の舞台が大きく広がった本作に相応しい戦いの形と言えるかもしれません。
が、それでも梁山泊は梁山泊なのがたまらないのであります。
沙門島壊滅に対しては、報復のために史進の遊撃隊がなんと南宋の首都・臨安に突撃あいrw、禁軍を粉砕。高地兵に対しては、秦容が単身半数以上を文字通り叩き潰し、逆に味方につけるために、高山に乗り込むことに……
ここしばらく、梁山泊自体が、一つの「場」というよりも「運動体」へと移行していったこともあり、激しい戦いは久しくなかった印象もある梁山泊。
しかしここで描かれた史進の、秦容の活躍は、初期梁山泊のそれを思わせるような破天荒かつ痛快なもの。特に史進の無茶苦茶な突撃には、敵であるはずの南宋軍人までもが「痛快」と評するほどなのですから……
(もっとも、その背後には史進の深い屈託があるのですが……)
そしてもう一つ、梁山泊は破天荒な攻撃を仕掛けることになります。それは一言でいえば「国の兵站を切る」――麦を、米を買い占め、流通を支配することで、相手の国そのものに圧力をかけようという凄まじいスケールのものであります。
武と武の戦いが、局地戦にしか見えないようなスケールのこの攻撃は、この『岳飛伝』における新・新生梁山泊ならではのものと言うべきでしょう。
果たしてこの攻撃がいかなる効果を上げるのか――それを含めて、海上の、南方の、そして梁山泊の戦いの行方が(ことに、これでもかとフラグを立てまくった狄成の運命が)、気になって気になって、仕方ないのであります。
そしてその中でのタイトルロールたる岳飛の役割も……
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