北方謙三『岳飛伝 十 天雷の章』 幾多の戦いと三人の若者が掴んだ幸せ
梁山泊対金、梁山泊対南宋――北で、南で、海で繰り広げられる戦いはいよいよ佳境に向かい、北方『岳飛伝』もついに二桁の大台に突入。波乱に次ぐ波乱の末に、次代を背負う若者たちに、それぞれの幸せが訪れるのですが――しかしそれで安心できないのが北方大水滸の恐ろしさであります。
共通の敵のために同盟を結んだ金と南宋、それぞれを迎撃することとなった梁山泊。
梁山泊近くでは呼延凌と兀朮が率いるそれぞれの本隊が激突、南方では梁山泊と岳飛双方に因縁深い辛晃が秦容と岳飛を窺い、そして海上では張朔と韓世忠の水軍が一進一退の攻防を見せることになります。
そしてこれらの戦いの陰では、米と麦の買い占めにより相手国の根底を揺るがそうという、いわば経済戦争(というより経済攻撃)というべき、梁山泊の奇策が……
そして、互いの首を狙って呼延凌と兀朮がいつ果てるともしれぬ戦いを続ける中、ついに正面から激突する史進と胡土児。互いの策の読み合いの末、韓世忠に父譲りの飛礫を放つ張朔。その張朔の命令で、造船所焼き討ちという死地に向かう狄成と項充。ついに秦容と手を携え、辛晃の心理を読み取って乾坤一擲の勝負に出る岳飛。
彼らだけでなく、今は商人として活動する王清や蔡豹もまた、それぞれの立場で戦いに参加することになります。
物語の舞台の広がりに伴い、各地で同時進行的に繰り広げられるこれらの戦いは、中盤のクライマックスに相応しいものというべきでしょう。
個人的には、梁山泊にとっては鬼門である造船所焼き討ちに向かう狄成と、彼に強引に付き合う項充の二人のエピソードが、その結末も含めて、実にグッとくる内容でありました。
さて、戦いが奪うもの、失うものだとすれば、生まれるもの、与えるものもまたあります。この巻においては、これらの戦いと並行して、あるいは戦いの後に、三人の若者たちが伴侶を得る姿が描かれることになります。
王貴、王清、蔡豹――王貴と王清は異母兄弟、そして王清と蔡豹は子午山で兄弟同様に育ったという関係にある三人が、それぞれ全く異なる形で、しかしこのように同時期に素晴らしい伴侶を得たのには、彼らが生まれる前から物語を追いかけてきた身にとっては何やら感慨深いものがあります。
特に王貴と岳飛の娘・崔蘭の結婚は、以前からずっと引っ張られていただけにようやく――といったところですが、何よりも花嫁の父たる岳飛のリアクションが面白い。
王貴に対しては唸るだけで、思わぬ形で月下氷人となった蕭炫材(ちなみにこの巻で一番化けたのは彼ではないかと思います)に当たり散らし、真情を吐露する姿が、何とも人間臭くて良いのです。
この辺りは、本作の始まりから一貫して描かれてきた、これまでの物語の主人公たちとはまた異なる彼の魅力が、強く出ていると言ってもよいでしょう。
そしてまた、ここしばらくはある意味一番危なっかしかった王清が、複雑な関係にあった鄭涼と結ばれることになったのも嬉しい。
特に王清の象徴とも言える笛を通じて描かれる二人の交流が感動的で、彼の心を受け止めてみせた鄭涼は、本作において今のところ最も好感の持てる女性とすら感じられます。
そして蔡豹――母から義父への怨念を吹き込まれ、さらに目の前でその母が首を吊るという過去から深いトラウマを背負っていた彼も、ある意味意外と言えば意外な相手を見つけることになります。
子午山でも癒やせなかった深い闇を背負ってきた彼が、ついにそれから解放され、自分が真に戦うべき理由を見つける場面は、これもまた感動的なのですが……
しかしこの巻において、本作が、いやこの大水滸が、どれだけ人の命において無情な――いや無常な物語であるかを、我々は嫌と言うほど思い出さされることとなります。
あまりにあっけない、そしてあまりに無惨な死。死の重みに軽重をつけることは、本来であれば許されるものではないかもしれませんが、しかしここで描かれるそれは、戦場でのその他の死よりもはるかに重く、衝撃的なものであったと言うほかありません。
この巻においてもう一つ印象的な、梁山泊と替天行道の在り方、そしてその行方も含め、まだまだ進んでいく道は、その行き着くところはわからない――そんな印象を新たにしたところでもあります。
しかし梁紅玉が出会った日本人「炳成世」、人から言われて気づいたその正体に吃驚……
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