武川佑『虎の牙』(その二) 伝奇の視点が映し出す戦国武士の姿と一つの希望
新鋭が武田信虎の半生を、その弟・勝沼信友らの視点から描くユニークな物語の紹介の続きであります。本作を大きく特徴付ける伝奇的趣向の果たす機能、役割とは――
その最たるものは、本作の最大の特徴ともいうべき信友の出自による、新たな視点の設定であります。
生まれはともかく、育ちにおいては武士ならざる山の民出身という設定である信友。齢三十を過ぎるまで己の出自を知らず、ある意味武士とは最も遠い暮らしを続けてきた彼の目に映るのは、外側から見た武士の姿――ある種の客観性を持った戦国武士の姿なのです。
そもそも我々の持つ戦国武士のイメージは、最近はだいぶ緩和されてきたとはいえ、かなりの部分美化されたものであることは否めません。
雄々しく敵と戦い、国を富ませ、戦を終わらせる――そうした側面はもちろんあるにせよ、特に本作の舞台となる戦国時代初期の関東の武士の姿は、より泥臭く、より容赦なく、より残酷なものであったのですから。
それは当時の武士たちにとっては当然のことではありますが――しかしそんな戦国武士たちの姿を、信友は(その中に身を置きつつも)外側からの視点で描くことになります。
武士にとっての「当然」が、それ以外の者にとってどう映るか――そんな異者としての信友の視点は、同じく異者である我々の視点と重なり、より鋭く戦国武士たちの現実の姿を描き出す力を持つのです。
そしてまた、戦国武士の現実を描き出すことになるのは、実は信友の視点のみではありません。その当の戦国武士たる虎胤――後に「鬼美濃」といういかにもな渾名で呼ばれた彼の姿からも、その現実は痛いほど伝わるのです。
武士としての義を重んじ、それがもとで国を追われることとなった虎胤。その彼が武田家で経験することになったのは、綺麗事では済まされぬ戦国の現実――乱取りや撫で切り、つまりは略奪や暴行、虐殺の数々であります。
それを経験した彼の姿は、彼が剛の者であるだけに、こちらにも強く刺さるのです。
そして彼ら二人との対比によって浮かび上がる信虎の姿は、やはりこうした戦国の現実の具現化のようにすら思えるのですが――しかしそれが彼の「悪行」に、ある意味逆説的な人間性を与えているのには、感心させられるところであります。
しかし――本作の真に見事なのは、こうした様々な視点から戦国の、戦国武士の現実を描くと同時に、それを打ち破り、乗り越えようとする人の姿を描く点にあると、私は感じます。
本作において、関東の武士を血で血を洗う争いに駆り立てる山神の呪い。それはある意味、歴史の流れや運命、人間の業といった、人の手によってはどうしようもないような存在の具現化としても感じられます。
しかしそれに流され、押し潰されるままでよいのか――本作における信友の姿は、それを半ば無言のうちに問いかけるのです。
武士ではなかったからこそわかる、武士という存在ののどうしようもない業。しかしそれを打ち破る術があるとすれば――たとえその結果が、小さな一つの命を救うだけのことであったとしても。あるいは、己にとって大きすぎる代償を支払うものであったとしても。
もちろん信友はヒーローではありません。ここに至るまで幾度も恐れ、揺れ、悩み苦しむ、小さな人間にすぎません。
それでも、それだからこそ、本作の結末で彼が成し遂げたことは、偉大なものとして――たとえ後の歴史には全く語られないものであったとしても――感じられるのです。
(そしてもちろん、そこに「伝説」から「歴史」の時代の変遷を見出すこともできるでしょう)
しかしその後も、武田家は常に修羅の中にあったように思えます。幾度も述べてきたように、信虎は子に追放され、義信は父に廃嫡され、そして勝頼は家を滅ぼし――関東武士に対する呪いは、絶えることなく続いていたようにすら感じられます。
果たして呪いは祓われたのかどうか。信友が擲ったものに意味があったのかどうか――それは時代を超え、武田家滅亡の刻を描く本作の終章を見れば明らかでしょう。
伝奇的趣向を用いて現実を多面的な視点から描き、そしてその先に一つの時代の終焉と希望の姿を描き出す。
迫力ある合戦描写、確かな人物描写も相まって、これが長編デビュー作とは到底思えぬ、完成度の高い、そして大いに魅力的な歴史小説の新星であります。
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