久保田香里『氷石』 疫病の嵐吹き荒れる中に道を照らす小さな奇蹟
天平9年(737年)といえば、当時の権力者であった藤原四兄弟が全て急死したほどの天然痘大流行の真っ只中。その混沌に翻弄されながらも、やがて自分の生きるべき道を見出していく少年の姿を厳しくも美しく描く、良質の児童文学であります。
死に至る疫病が大流行する都の市場で、病に効く護符と称して河原で拾った石を売る少年・千広。
父は数年前に遣唐使船に乗って渡った唐に残り、その間に母を疫病で失った千広は、自分の身を案じる従兄弟の学生・八尋に背を向けたまま、日銭を稼いで生きていたのであります。
そんなある日、彼の売る石が氷石(水晶)のようで美しいと語る貴族の下働きの少女・宿奈と出会い、惹かれるようになった千広。
やがて、かつて父から学んだ書を頼りに、宿奈の協力を得て病除けの護符を売り出した千広の生活には、少しずつ張りが生まれていくのでした。
しかしそれもつかの間、千広は疫神の魔の手により、最も親しかった人を失うこととなります。さらに市で幅を効かせるならず者に逆らった彼は、ひどく叩きのめされ、旧知の法師・伊真が働く施薬院に運び込まれるのですが……
冒頭に述べたように、歴史に残るほどの天然痘の大流行が人々を苦しめた天平年間。富める者も貧しき者も平等に――いや、貧しき者はより一層苦しい生を強いられたこの時代に生きた、少年の絶望と再生を本作は瑞々しく描きます。
たった一人、周囲から顔を背けるようにして生きてきた主人公・千広は、かつては温かい家庭に暮らし、学問好きの父の下で、やはり学問に興味を持ってきた少年。
そんな彼の心は、しかし、父が自分と母を置いて唐に渡り、そして十数年後まで帰国しない道を選んだことから、深く傷つくことになります
父が自分や母よりも学問を選んだと思い、そして遣唐使が唐から持ち込んだとも噂された疫病によって母を失ったことから、幾重にも父や周囲の人々への怨みを募らせていく千広。
彼は生きるために、河原の石を磨いただけのものを護符と称してインチキ商売を始めるのですが――しかしそれは同時に、自分たちに目もくれなかった世間の人々を嘲り、大袈裟に言えば復讐するための哀しい行為にほかなりません。
そしてそんな歪みは、ヒロインたる宿奈もまた抱えていることが本作では示されることになります。
身寄りもなく、先輩格の下働きに虐待されながら、豊かに暮らす貴族の屋敷で朝から晩まで働き続ける宿奈。水汲みを命じられた彼女が、疫病で死んだ死体が沈んだ井戸から平然と水を汲んで屋敷に持ち帰るくだりは、何とも衝撃的であります。
しかしそんな千広も宿奈も、変わることができる。大切に想える相手を、あるいは自分が懸命になれるものを見つけることができれば――世間と正面から向き合いより良い生を生きることができると、本作は静かに、力強く訴えかけるのです。
もちろんそれは容易いことではありません。身近な人を失うかもしれない。心身に傷を負うかもしれない。親しい人と離ればなれになるかもしれない。
それでも、それでも――この生には生きる意味が、価値があるのだと、千広と宿奈の姿が、二人が出会う小さな奇蹟が教えてくれるのです。
そんな物語は、一歩間違えれば、悪い意味でお話めいていたり、お説教めいたものになりかねないかもしれません。
しかし本作は、生と死が隣り合わせになった過酷な時代を舞台に、容赦ない物語を展開することで、物語にこれ以上ない現実感を与えることに成功していると言えるでしょう。
あるいはこの時代にいたかもしれない少年少女の姿を描くことにより、いつの時代も変わらないあるべき生の姿を描く。
良質の歴史物語であり、それだからこそ成し得た良質の児童文学であります。
『氷石』(久保田香里 くもん出版) Amazon
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