久保田香里『駅鈴』 歴史を駆け抜けた少女の青春
律令制下で公用の情報伝達・旅行のために街道沿いに設置された「駅家」。その駅家を舞台に、駅家で働くことを夢見る少女を主人公とした物語――『氷石』で奈良時代の少年少女の姿を瑞々しく描いた作者が、再び奈良時代を舞台に描く物語です。
近江国の駅家の駅長の家に生まれ、将来は駅子(駅家の業務を行う者)や駅長になることを夢見てきた少女・小里。しかし周囲からは女がなれるわけないと言われ続けてきた彼女は、ある日京から来た駅使(役所や朝廷からの手紙を運ぶ使者)見習いの青年・井上若見と出会います。
駅の仕事をさせてもらえない小里と、なかなか駅使に馴染めない若見――どこか似た二人は、やがて互いの周囲の出来事や、将来の夢を語り合うようになるのでした。
時が流れていく中、駅子の仕事を任されるようになった小里と、親王に仕えるようになた若見。互いに惹かれ合いながらも、自分の夢である駅家での仕事に打ち込むことを選んだ小里ですが、思わぬ事件のために大きな挫折を味わうことに……
冒頭に述べたように律令制下で各地に設けられた駅家。フィクションの世界で中心的に描かれることは極めて珍しいこの制度を中心に置いて、本作は展開していきます。
駅家の運営が地元の富裕な農民等によって行われていたというのも、その代替わりの際に国の審査があるというのも、恥ずかしながら初耳。それだけにまず題材の時点で、大いに新鮮に感じました。
さて、小里はそんな駅家を運営する一族に生まれ、祖父や両親が働く姿を間近に見て育った少女ですが――駅子や駅長に憧れるのはむしろ当然であったとしても、その夢の実現が、特にこの時代においては極めて困難であることは言うまでもありません。
そんな厳しい道を一心に行こうとする彼女の姿は、若者だからこその無鉄砲さに満ちていると言うべきですが――しかしだからこそ眩しく感じられます。
本作はジャンル(レーベル)としては児童文学となりますが、なるほど、自分の将来に向けて歩いていこうとする子供たちに向けた物語として――そして同時に、性別の壁を超えようとするエンパワメントの物語として――その内容は、大きな意味を持つと感じられます。
しかし本作は、そうした一種の青春小説としてだけでなく、歴史小説としても、実に魅力的な作品であります。
その源が、駅家にあることは言うまでもありません。その時代特有の事物を描きつつ、それを密接に物語に絡めてみせる――歴史小説としては当たり前ではありますが、それが本作においては、独特の題材を用いることもあって、特に巧みに感じられます。
何よりも、上で触れたように駅家が今で言えば運営を民間委託しているという特徴が、小里の夢の行方に大きく関わってくる物語展開には、大いに感心させられました。
そしてまた、本作の物語の背景として描かれる当時の史実、歴史の流れにも注目する必要があるでしょう。本作の舞台となるのは739(天平11)年から747(天平19)年の約10年間。奈良時代の最盛期ですが――しかし華やかな印象に比して、決して平坦な時代ではありません。
遣唐使の帰還と渤海使の渡来、九州での藤原広嗣の乱、幾度もの遷都、そして地震などの天変地異――本作の後半で重要な背景となる大仏建立へと繋がる時代の波乱が、そこにはあるのです。
本作の登場人物である小里や若見は、これらの史実と密接に結びつきつつも、しかし決してその史実の主役ではありません。むしろその史実を時に傍観し、時に翻弄される立場なのですが――それこそが大きな意味を持ちます。
歴史に触れるとき、我々はどうしてもその時代を動かしてきた層ばかりに目を向けてしまう(古代であればなおさら)ものです。
しかしその時代に生きてきたのは、そんな一握りの人々だけではありません。我々と同じように、それぞれに日々を懸命に生きてきた人々がそこにはいたのだと、本作ははっきりと示してくれるのです。
そしてそれが、読者と主人公を重ね合わせて描くことの多い児童文学において、大きな意味を持つことは言うまでもないでしょう。
現代の我々とさして変わらぬ夢や希望、不安や喜びを抱いて生きる若者たちの姿を描く青春小説として、そしてそんな彼らの姿を通じて、この時代ならではの風物や事件を庶民の視点から描く歴史小説として――その両者が見事に結びついた名品であります。
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