楠章子『夢見の占い師』 まぼろしの薬売りが怒り、悲しむもの
前作『まぼろしの薬売り』から5年後に刊行された待望の続編――明治初期の日本を舞台に、人里離れた村々に薬を届ける時雨と小雨の師弟が出会った事件の数々を描く物語です。が、本作の後半では少々意外な展開が……
未だ近代化の波が及ばない僻地を訪れては、人々に薬を与える「まぼろしの薬売り」こと時雨と、その弟子・小雨。世にも美しい青年である時雨と、元気いっぱいの少年である小雨には、それぞれ隠された過去がありましたが――今は二人で人々に希望と元気を与えるために旅を続ける毎日であります。
前作は全四話構成の連作短編集といった趣の作品でしたが、本作も基本的な構成はほぼ同様であります。
第一話「野ざらしさま」の舞台となるのは、医者や薬師が必要ないという海辺の小村。他所とほとんど交流がないというこの村を訪れた二人は親切な夫婦に歓待されるのですが、小雨が食あたりで倒れ、薬も効かない状態で苦しむことになります。
そこで村に伝わる万病を治す存在・野ざらしさまを頼ろうとする夫婦ですが――しかしその正体は意外なものであったのです。
そして第二話「赤花の人たち」は、不治の病と恐れられる赤花病の患者が捨てられる山中の村を舞台とした物語。そこで暮らすのは、みな捨てられた元患者たち――実は病は完治するものでありながら、伝染を恐れる人々に追われた彼らは、一つの共同体を作って暮らしていたのであります。
その村を訪れた時雨と小雨は、途中で赤花病を発症した幼い少女と出会うのですが……
共同体を維持するために、か弱いものを犠牲にせざるを得ない人々を描く第一話、周囲の人々の偏見の目によりやむなく隔離された環境で生きざるを得ない人々を描く第二話――いずれもそこで描かれるものは、近代化以前の、因習や迷信に囚われた者たちの姿ではあります。
しかしそれは決してこの時代のものだけではなく、様々に形を変えて現代に通じるものであることを、我々は知っています(特に第二話のモチーフが何かは明白でしょう)。
ここで描かれるのは過去の物語であるだけでなく、現在の現実――そんな重く苦い(もちろんそれだけではないのですが)味わいは、前作同様と言えるでしょう。
一方、前後編的な内容である後半の「さるお方」「奇跡の子ども」は、前半とは少々変わり、伝奇的味わいすらある内容です。
謎の一団によって攫われた小雨。かつてなみだ病なる奇怪な病で家族や周囲の人々を全て失いながらも生き延びた彼は、「奇跡の子供」と呼ばれ万病に効く「薬」として狙われていたことから、小雨を救うべく時雨は奔走することになります。
しかしその前に現れたのは、かつて時雨を広い、医術を仕込んでくれた師にして老忍びの雷雨。手違いで配下の者が小雨を攫ってしまったと語る雷雨は、時雨を自分たち忍びが暮らす村に迎えるのでした。
そこで周囲から丁重に扱われていたのは、白い髪と白い肌を持った少女・ユキ。夢によって将来を占う力を持つユキは、雷雨たちの主にとって大事な存在なのですが、体が弱く、日の光の下では暮らせぬ身だったのです。そんな彼女と仲良くなった小雨は、何とか彼女を救い出そうとするのですが……
前作では時雨の背景として描かれる程度であった、雷雨と忍びたちの存在がクローズアップされるこのエピソード。そこに明治初期という時代背景と「国」という存在を絡めることによって、物語は意外なスケールの大きさを見せることになります。
しかしあくまでも物語の中心にあるのは、一人の人間の命の重さと尊さ、儚さ。そしてその命を守り、癒やすための犠牲は許されるのか、という問いかけであります。
もちろん、その問いに簡単に答えが出せないことは言うまでもありません。いかに優れた腕を持ち、「まぼろしの薬売り」とまで呼ばれるとはいえ、時雨もただの人間。全ての病を治すことはできず、そしてそのためにあらゆる手段を用いようとする人々の心は、誰よりもよくわかっているのですから。
しかし、それでも守らなくてはいけないことが、許してはいけないことがあります。物語の結末で時雨が語る言葉――弱者の犠牲を当然とする世界に対する怒りと悲しみの念は、それを知る時雨の口から出るからこそ、この上もない重みを持って感じられます。
そしてその時雨だからこそ、人の命を救うという重圧を背負いながらも、旅を続けられるのだと、理解できるのです。
そんな時雨と、時雨を支える小雨の旅路をこの先も読んでみたい――そう感じさせられる佳品であります。
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