武川佑『弓の舞(クリムセ)』 天下がもたらすものと舞に込められた想い
これまで戦国時代を題材とした作品を中心に発表してきた武川佑。その作者が、戦国時代の一つの終わりを描く短編――九戸政実の乱の結末を、そこに加わった青年とアイヌの姿から描く短編であります。
秀吉の奥州仕置が終わり、ひとまずは奥州に新たな秩序が生まれたものの、なおも続く一揆や兵乱。そんな中、南部家の中でも有力者であった九戸政実が、当主・南部信直に対して挙兵し、散々に本家側を苦しめることになります。
これに対して秀吉は諸大名に号令して大討伐軍を編成、追い詰められた政実は九戸城に籠もり、6万の包囲軍を相手にすることになるのですが……
本作は、この九戸政実の乱に参加した青年・小本兵次郎を主人公とした物語。半漁半士の閉伊郡船越党の一人として、九戸家への助太刀を命じられた兵次郎が、やはり九戸家に味方するアイヌのシウラキと出会い、彼とともに九戸城に入る場面から物語は始まります。
彼らが入ってすぐに始まった包囲軍の猛攻の中、シラウキが敵方についたアイヌと戦おうとしたのを兵次郎が止めたことをきっかけに、親しくなった二人。
その晩、対陣する兵から蝦夷舞の勝負を持ちかけられたシラウキは、兵次郎をパートナーに指名し、見事な『弓の舞(クリムセ)』を舞ってみせるのでした。
しかし劣勢は覆せず、兵や民を坑道から逃し、開城することとなった九戸城。アイヌに扮するとシラウキと二人、敵陣に潜り込んだ兵次郎は、敵将・蒲生氏郷の前でクリムセを舞うことになるのですが……
その前年に行われた奥州仕置の、ある意味締めくくりとも言う形となった九戸政実の乱。この局地戦ともいうべき戦いによって奥州は統一され――すなわち、天下は秀吉の下に統一されたことになります。
この戦いの結末、九戸城落城の際に、「夷人二人」が許され、氏郷の前で舞ったという『氏郷記』の記述を基とした本作。このわずか数行の記述から、本作は深く重い、そして豊かな物語を生み出してみせるのです。
主人公たる兵次郎は、いわば一族の代表という形で九戸城に入った青年。かつて父を奪った大浦為信が敵方にいることもあり、敵討ちと心を励まして激戦に身を投じるのですが――しかしその実、一族は南部方に付き、彼は一人梯子を外された格好となります。
そして彼と厚誼を結ぶシラウキは、その大浦氏によって故郷であるト・ワタラ(十和田)の地を奪われ、戦うことで土地を取り戻そうとする男として描かれます。
この二人に共通するのは大浦氏への遺恨――ではありますが、それ以上に大きいのは、舞台となる九戸城においては局外者であること。彼らは九戸と南部、九戸と豊臣の戦には直接関係のない身でありつつも、二人は九戸城に入ったのであります。
そんな二人が、城内から脱出する人々のため、アイヌとして敵陣に乗り込むというのは、見方によっては非常に盛り上がる展開ではありますが――しかしそれを単純なヒロイズムの発露として描かないのは、本作の巧みな点でしょう。
そしてその印象は、氏郷を前にして兵次郎が取ろうとした行動と、それに対するシラウキの行動によって、より印象的なものとなります。
そこに浮かび上がるのは、この戦いの先に生まれる「天下」がもたらすものの真の姿であり、そしてそれによって踏みにじられる者たちの存在であり、そしてそれに対する「もう一つの」戦いの在り方なのですから。
本作において二度にわたり描かれることとなるクリムセ。それは野で美しい鳥に出会った男が、弓で射るか射るまいか惑う姿を表した舞であります。それは自然とその美に対する敬虔の念の現れであると同時に、それを奪うことを躊躇う人間性の現れと言うことができるのではないでしょうか。
だとすればその舞を戦いの最中に、そして敵将を前に踊ることにどれだけの意味が、想いが込められているのか――それを考えたとき、我々の胸は、あるいは熱く高鳴り、あるいは冷たく沈むのであります。
しかし私は、兵次郎とシラウキが最初にクリムセを舞ったとき、兵次郎は鉄砲を、シラウキは弓を手にしていたことに、一つの希望を感じます。
アイヌにとっては禁忌でもある鉄砲。それを手にした兵次郎とシラウキが共に舞う時、そこにあるのは決して破壊ではなく、人と人との融和の姿であると――そう信じたいのであります。
『弓の舞(クリムセ)』(武川佑 「小説現代」2018年8月号)
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