星野之宣『海帝』第1巻 伝説の海の男・鄭和を突き動かす想い
星野之宣といえば、ハードかつロマンチシズムに溢れた希有壮大なSF漫画の名手ですが、しかしその活躍の舞台は、SFだけに留まりません。本作はその作者が15世紀初頭の大海を舞台に描く歴史ロマン――主人公は明王朝で重用された宦官にして、七度もの大航海を成功させた伝説の男・鄭和であります。
元を滅ぼした明王朝において、二代皇帝・建文帝を力で除き、皇位に就いた永楽帝の時代。猜疑心の強い永楽帝により血で血を洗う粛正が相次ぎ、秘密警察・錦衣衛と東廠が恐怖政治を支える中、永楽帝に諫言することを恐れない数少ない男が鄭和であります。
今日も倭寇を蹴散らし、足利義満への使節の任を成功させて帰ってきた鄭和。その彼に対して、永楽帝は明の威信を諸国に知らしめるための大船団派遣を命じることになります。
建国以来ほとんど鎖国状態にあった明において、本格的に海外に乗り出すのはこれが初めて。かねてより海の向こうの国を夢見てきた鄭和にとっては念願とも言うべき機会ですが――しかし、彼にはもう一つの目的があったのです。
永楽帝によって南京の兵火の中に消えたはずの建文帝。しかしその生きたいという願いに応えて、鄭和は建文帝と皇女を密かに匿っていたのであります。
今回の航海の機会に乗じて、彼らを海外に亡命させようとする鄭和は、命を救ったことで縁ができた少年・潭太と、彼が属する倭寇・黒市党の協力を得ると、建文帝らを乗せて大海に乗り出そうとするのですが……
冒頭に述べたとおり、鄭和といえば大航海時代に先んじて、大艦隊を率いて遠く南洋までの航海を七度も成功させた実在の人物であり、世界史の教科書ではお馴染みの人物――しかしその実像については知られていないことが多いのではないでしょうか。
実際のところ、鄭和の航海については永楽帝の死後、資料がことごとく破棄されてしまい、実像は不明の部分が多いのが事実。
たとえば艦隊の母艦であった「宝船」のサイズなども、コロンブスのサンタマリア号の5倍という途方もないサイズと言われていますが、それが本当であるかは、謎のベールに包まれています。
しかし本作はそれを巧みに利用し、その史実の隙間を作者一流のビジュアルを以て巧みに埋めつつ、説得力のある物語を生み出すことに成功しています。いやそれだけでなく、そこに建文帝生存伝説という巷説を絡めることによって、伝奇風味も濃厚な物語を作りだしているのですからたまりません。
これも冒頭に述べたとおり、日本屈指のSF漫画家である作者ですが、それと同時に、屈指の伝奇作家でもあります。本作はその作者の資質がはっきりとでた、希有壮大な物語なのであります。
が、本作の最大の魅力は、その歴史ロマンとしての壮大さ、伝奇物語としての面白さではなく、本作で描かれる鄭和の人物像にこそあると感じられます。
史実においても、永楽帝が帝位に就く前の燕王であった時代から彼に仕え、武人として知られた鄭和(宦官にして武人というのは一見矛盾して感じられますが、水滸伝でおなじみの童貫のように、決してあり得ない存在ではないのでしょう)。
本作においては、燕王とともに蒙古と戦っていた時代に追った数々の傷が、作中の言を借りれば、まさしく「完膚なきまでに」その身を覆う鄭和。そんな彼の行動は、常にその身に相応しく果断かつ勇敢なものなのですが――しかしそんな彼を突き動かしているのは、常に「生きたいと強く願う人間の命を救う」という想いなのです。
時に己の身をも平然と危険に晒す鄭和の強い想いはどこから来ているのか――彼の出自にも繋がるその理由が語られる場面は、間違いなくこの巻のクライマックス。ぜひ作品を実際に読んで驚き、感動していただきたいと思います。
もちろん、彼は決して単純な理想主義者ではありません。それどころか、それを貫くことの難しさを誰よりも知りつつ――それでいて決して諦めない。そんな快男児の姿に、心を動かされずにいられるでしょうか。
そしてそんな強い想いを抱く鄭和が、海を往来する倭寇をして「遥かなる旅人の目だ」と言わしめるその瞳で、この先何を見るのか――この先を彼と共に見届けたいと、強く感じるのであります。
『海帝』第1巻(星野之宣 小学館ビッグコミックススペシャル)
海帝 (1) (ビッグコミックススペシャル) | ||||
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