森川成美『さよ 十二歳の刺客』 人として少女が掴んだ一つの希望
牛若丸という少年ヒーローがいるためか、特に児童文学における源平合戦は、源氏側から描かれるものが比較的多い印象があります。それに対して本作は、生き延びた平家の姫君――それも当の義経の命を狙う少女を主人公とした、極めてユニークで、そして重く豊かなものを持った物語であります。
平家方の総大将であった平維盛の姫・さよ。壇ノ浦の戦いで乳母共々入水したものの、平家びいきの漁師たちに奇跡的に助けられた彼女は、素性を隠して奥州藤原氏に仕える清原家に引き取られ、養女として暮らすことになります。
そこで平和に暮らしながらも、弓馬の腕を磨いてきたさよには、一つの目的がありました。それは卑劣な手段で平家を滅ぼした男・源義経をこの手で討つこと。そして当の義経が奥州に逃れてきたことを知った彼女は、平泉で行われた流鏑馬の場で、ついに義経に出会うことになります。
流鏑馬を見物するために男のなりをしていたためか、当の義経から息子の千歳丸の遊び相手となるよう命じられたさよ。これ幸いと衣川の接待館で暮らすようになった彼女は、義経が千歳丸に異常に厳しく当たるのを目の当たりにして、いよいよ敵意を燃やすのですが――しかし父を一心に慕う千歳丸を前にして、複雑な心境を抱くようになります。
それでも仇は討たなければならないとこころを奮い立たせ、足跡が残らないよう雪がとけた時に義経を襲撃することを決めたさよ。しかし決行の日、思わぬ事態が……
冒頭で述べたように、これまで源氏側から描かれた物語が多かった印象がある源平の合戦。そうした物語では、いきおい平氏の方が武家として劣っていた、驕っていたから敗れたという視点になりがちであります。
しかしそれが真実であったか。まさしく判官贔屓といいつつ、その九郎判官に敗れた平氏の側が不当に貶められているのではないか。何よりも私自身、気付かぬうちにそんな視線が内面化されていなかったか――本作を読んでまず考えさせられたのはそれでした。
そう、本作の主人公・さよは、そんなものの見方に真っ向から、自分の身を以て異議申し立てを行う人物として描かれます。
彼女の父・平維盛は、富士川の合戦で舞い立つ鳥の音に驚いて兵を退いた愚将、敗戦後も武士らしく身を処することなく、その死に様も定かではないと伝えられる人物ですが――しかし少なくともさよにとっては愛すべき父であり、そしてその父をはじめとする平氏方を卑怯な手で滅ぼした義経こそが許せぬ悪なのですから。
実際のところ、本作で描かれる義経は、そんな彼女の憎悪を向けられるに相応しい人物として感じられます。子供のような体格にしわくちゃの猿のような顔、突然賑やかに振る舞うかと思えば、実の息子である千歳丸に過剰なまでに癇癪を爆発させる――その姿は、およそ後世に伝えられるような名将とは思えません。
そのような描写も相まって、本作の佐用の姿には、誰でも応援したくなるのではないでしょうか。……物語の中盤までは。
義経を討つために期を窺い、彼の周囲を調べて回るさよ。しかしその中で明らかになっていくのは、英雄でもない、悪人でもない、もう一つの義経の素顔であります。
彼にも愛する者がいる。不器用でありながらも千歳丸に対する愛情がある。そして何より、彼にも戦う理由、勝たなければならない理由がある。そして千歳丸もまた――さよ自身がそうであったように――そんな義経を慕っている。
そんな考えてみれば当たり前の、しかし仇討ちを夢見て生きてきた身にとっては意外で、そして重い事実が、やがて彼女に突きつけられることになります。
だとすれば彼女はどうすればよいのか。彼女は如何なる道を選べばよいのか。平氏と源氏に、勝者と敗者に、戦う者たちに善も悪もないとすれば――そんな難しい問いかけに、本作はいたずらに相対主義に陥ることなく、一つの答えを示してみせます。
あるいはそれは最善の答えではないかもしれません。その先に待つのは茨の道であり、結局は同じ結果になるのかもしれません。
しかし彼女の選んだ道は、彼女自身や彼女の父、そして義経がそうであるような「人」として――そしてこれからの人生で、あるいは彼女と似たような悩みを抱くかもしれない人々が読む物語の結末として――望ましいものであったと、そう強く感じます。
少なくとも本作の結末二行に静かに描かれた一つの「事実」、それは人が人らしく生きた結果に掴んだ、希望の証なのですから……
『さよ 十二歳の刺客』(森川成美 くもん出版)
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