山本周五郎『秘文鞍馬経』 秘巻争奪戦を通じて描く人と人の間の希望
没後50年のためか、昨年から次々と刊行されている山本周五郎作品。その中には、これまでほとんどお目にかかることのできなかったレアものも含まれているのは有り難い話です。本作はその一つ、信玄の秘宝の在処を記した秘文を巡り、少年武士と男勝りの姫君が繰り広げる冒険を描く児童文学であります。
武田家が天目山で滅んだ際、追っ手と相打ちとなって死んだ三人の落ち武者。彼らが手にしていたものこそ、信玄が己の亡骸とともに諏訪湖に沈めるよう命じた巨額の財宝の在処を示す五巻の巻物だったのでした。
それから時は流れ、関ヶ原の戦で家康が三成を破った直後――落ち武者たちの死に際に居合わせた郷士の子・高市児次郎と家来の猟師の子・伝太は、山賊に追われているという美少女・小菊を救い、屋敷に案内することになります。
ところがその晩、屋敷から抜け出し、密かに落ち武者たちを葬った塚へ向かった小菊の姿がありました。実は彼女の正体は家康の長子・信康の子――すなわち家康の孫娘であり、男菊との異名を持つ菊姫。
児次郎と伝太の会話から、塚の下に五巻の秘文があると知った彼女と配下は、巻物を狙って塚を掘り返したのであります。
ただちに追いかけ、五巻のうち二巻は取り戻したものの、残りは菊姫に持ち去られた児次郎。折りよく父のもとを訪れていた僧・閑雪(その正体は何と○○○○)とともに、児次郎と伝太は菊姫を追って旅に出ることになります。
しかし剣の達人であったはずが、旅の途中の徳川兵との真剣勝負の中で身動き一つできなかった児次郎は、己を恥じて修行のために一人姿を消すのでした。
その後も秘文を巡って続く閑雪一派と、菊姫をはじめとする徳川方との丁々発止の戦い。果たして児次郎はどこへ消えたのか、秘文が示す財宝の在処はどこなのか。そして財宝を最後に手にする者は……
戦前――昭和14年から15年にかけて、「六年生」という雑誌に連載された本作。つまりは児童文学ですが、しかしこれが現代の、しかも大人の目で見ても十分以上に面白い作品であります。
何しろ物語は伝奇時代小説の王道である宝探し、それも敵味方の手に別れた巻物争奪戦――と、この頃からこのシチュエーションはあったのかと感心しますが、そこに関ヶ原の戦の後、いよいよ天下を掌中に収めんとする家康と、反徳川勢力の暗闘が絡むのですから、面白くないわけがないのであります。
本作が発表されたのは、直木賞を受賞(辞退)する数年前――作者にとってはまだまだキャリアの初期の頃ではありますが、人物描写といい、物語展開といい、そして剣戟描写といい、丹念に描かれたその内容は、さすがというべきでしょうか。
しかし個人的に一番感心させられたのは、本作で重要な位置を占める菊姫のキャラクターであります。
上で述べたとおり、家康の孫娘である菊姫。しかしその行動は男まさりとかじゃじゃ馬という域ではなく、男装して刀を振るったり、秘文奪取のための陰謀を巡らすなど、財宝争奪戦における徳川方の代表選手とも言うべき存在なのです。
いわばヒロインにしてライバル。本作の主人公である児次郎が優等生型のキャラ――といっても決して完全なキャラなどではなく、彼の修行すなわち成長が、本作の大きな要素となっているのですが――である一方で、菊姫の造形は、実に個性的で、今見ても新鮮なキャラクターに感じられます。
しかしヒロインがライバル――財宝争奪戦を巡る宿敵であるということは、二人が戦いの果てにすれ違うしかないということを意味しているのでしょうか?
その答えはここでは記しませんが――ついに五巻の秘文が揃った時に、それは明らかになるとだけ述べておきましょう。そしてその答えは、戦乱うち続くこの時代において一つの希望というべき、爽快さを感じさせるものであるとも……
波瀾万丈の時代伝奇小説であると同時に、個性豊かな登場人物の人間模様を、そして人と人との間の希望の姿をも描いてみせる――小品ではあるかもしれませんが、作者の力を感じさせる物語であります。
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