辻真先『焼跡の二十面相』(その二) 探偵である意味、少年である意味
昭和20年、敗戦直後の東京を舞台に、再び跳梁を始めた怪人二十面相に小林少年が挑む、痛快なパスティーシュ『焼跡の二十面相』のご紹介の続きであります。
前回、本作独自の魅力として、小林少年を主人公に据えたことを挙げましたが、もう一つ、決して忘れてはならないものがあります。それは、敗戦直後という舞台設定そのものであります。
輝かしい文化の数々――その一つにほかでもない、探偵小説があったといえるでしょう――は戦争によって失われた末、誰もが明日の夢よりも今日の飯を追い求めることを余儀なくされた、敗戦直後の日本。本作はその姿を、リアルタイムでそれを目撃してきた者ならではの目で、克明に描き出します。
(例えば、爆撃で真ん中が、そして焚き付けにされて根本が失われ、天辺だけがブラブラと残った電柱、などという奇怪な風景など、その最たるものでしょう)
そんな世界に蠢くのは、ロマンと稚気、そして美学に溢れる怪人とは全く異なる種類の人間たち――戦争を利用して私腹を肥やす大商人、敗戦したと見るや米軍にすり寄って儲けようと企むブローカー等々、厭な「大人」たちなのであります。
敗戦直後という夢も希望も、文化も誇りも失われた世界、怪人や探偵にとっては空白の時代には、そんな人間たちが相応しいのかもしれません。しかしそれでも本作が、そんな焼跡にあえて乱歩の世界を復活させてみせたのは――これは作者らしい強烈な異議申し立てであると感じられます。
作中で繰り返し繰り返し描かれる、当時のそして戦時中の世相、そしてそれを仕掛けた人々とそれに流された人々に対する皮肉。読んでいて些か鼻白むほど痛烈なその皮肉は、先に述べたように、リアルタイムでその世界を知る作者ならではのものというべきでしょう。
しかし本作はそんな直接的な皮肉以上に、さらに強烈なカウンターパンチを、現実に喰らわせるのであります。戦争というバカバカしい現実にも負けずに復活し、現実を翻弄してみせる怪人の存在によって。そしてそれに挑む正義と理性の徒である探偵の存在によって。
そしてまた――そんな焼跡の物語だからこそ、現実の愚かな「大人」たちを相手にするからこそ――本作の探偵は、未来と希望の象徴である「少年」でなければなかったと感じます。
目の前の現実に翻弄されて右往左往している大人たち、現実の中にどっぷりはまって小狡く立ち回っている大人たちを後目に、明日を夢見て奮闘する少年に……
さらに言えば、本作で描かれる痛烈な皮肉が、決して舞台となった時代に対してのみ向けられているわけではなく、今我々が生きるこの時にも向けられているであろうことをと思えば――小林少年の活躍は、かつて少年だった我々に対するエールとも、発破とも感じられるのです。
などと小難しいことをあれこれと申し上げましたが、やはり本作の基本は良くできたパスティーシュであり、痛快な探偵活劇であります。
終盤の逆転また逆転のスリリングな騙し合いのたたみかけは見事というほかなく、何よりも思いもよらぬ(それでいて乱歩とは全く無関係というわけではない)ビッグなゲストまで登場するサービス精神にはただ脱帽するほかありません。
そしてここで語られるこのゲストの戦争中の行動については、なるほど! と納得するほかなく――そしてそこから生まれる「名探偵」同士の爽やかな交流にも胸を熱くさせられるのです。
(さすがにそこからあのキャラクターに持っていくのはちょっとやりすぎ感もありますが……)
そして、ラストの小林少年の言葉に思わずニッコリとさせられる――そんな怪人二十面相と少年探偵団の世界、探偵小説という世界への愛に満ちた本作。
かつてその世界に胸躍らせた我々にその時の気持ちを甦らせると同時に、空白の時代に活躍する彼らの姿を描くことにより、我々の胸に新たな火を灯してくれる――そんな快作であります。
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