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2019.08.20

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第13巻 もう一人の大愚から羽ばたく翼


 鴻門の会という大ピンチを乗り越え、今度こそ劉邦の下での役割を終えた張良。ようやく故地である韓の王に仕えることができるかと思われた張良ですが、しかし思わぬ悲劇が彼を襲うことになります。そしてそこから始まる彼の新たな戦いとは……

 ついに秦を滅ぼしたものの、項羽を怒らせたことで一転窮地に立たされた劉邦。張良は鴻門において劉邦を項羽の懐に飛び込ませてその赦しを勝ち取らせるとともに、さらに追いすがる范增の放った兵からも、韓信と窮奇の助けによって逃れたのでした。

 そして何とか一息ついたこの巻の冒頭で描かれるのは、項羽による戦後処理――というにはあまりに荒っぽい所業。いきなり始皇帝の墓を焼き、咸陽では秦の皇帝一族を皆殺し、そして略奪&これまた放火――これが当時の常識といえば常識、作中で言及されるとおり「ある意味兵に優しい」といえばその通りかもしれませんが、この項羽の行動にはさすがに引くものがあります。
 と、そこで項羽が出会った一人の少女。自分と同様に重瞳である胡人の少女――黄石にどこか似た面影のその少女を気に入った項羽は、彼女に虞姫と名付け、側に置くこととするのでした。

 なるほど、項羽を語る上で欠かせない人物でありつつも、史実では定かではなかった彼女との出会いがここで描かれるとは――と驚かされると同時に、黄石=虞美人でなくて本当に良かった、と一安心であります。


 さて、そんな戦後処理の果てに、劉邦に与えられたのは――関中ならぬ漢中。南西の僻地であります。要するに左遷(これが語源という説もあるようですが)されたわけですが、さらに劉邦の下からは張良が、韓王となった成のもとに帰るために離れることになります。
 もちろんこれは当初からの約束ではあったわけであり、双方納得の上ですが――しかし本作においては、途中で思い立った張良がとって返し、漢中に向かう途中の劉邦に、桟道を焼くように献策するという形になるのが面白いところであります。というのも、このアレンジによって、劉邦のもとには新たなる将が加わることになるのですから。

 その将の名は韓信――言うまでもなく後に漢の三傑の一人、国士無双であります。
 が、本作では史実以上に不遇な扱いに見える韓信。張良が劉邦に対して自分の後を任せられる人物として推薦したにもかかわらず、左遷のゴタゴタで相手にされず、蕭何に預けられたものの、ここでも忘れられ、挙げ句の果てにはつまらない罪で斬首寸前まで……

 ここまで不遇というのはちょっと可笑しさすら感じますが、ここで一計を案じた韓信は軍から脱走、彼の価値を悟って単身追ってきた蕭何ともども、劉邦のもとに戻り――という史実のくだりに、丁度居合わせた張良が加わることによって、ここで三傑が揃うという本作ならではの展開は、実にドラマチックであります。
 そして韓信がやたらと蕭何に認められ、帰った後に劉邦がいきなり大将軍に抜擢するという史実も、張良が間に挟まると、何となく納得できるところであります。


 と――なんだかんだで最後まで面倒見のよい張良ですが、ここで思わぬ運命が彼を襲うことになります。
 先に述べたように、劉邦のもとを辞して韓王成の下に向かった張良。ようやく彼の本来の望みであった祖国を復興し、その臣として働くことができるかと思いきや――成は項羽の下に留め置かれるというではありませんか。

 色々と理屈はつけられたものの、これは張良を縛らんとする范增の策であることは間違いありません。挙げ句の果てに、成は王から候に格下げされてしまうのですが――ここで成が一つの決断を下すことになります。
 張良に対して「重荷」という言葉をぶつけ、放逐すると言い出す成。果たしてその真意は、そしてその先の彼の行動は――これはここで述べるだけ野暮というものでしょう。

 ただ言えるのは、その真意を知った窮奇が評するように、成もまた「大愚」――すなわち一人の英雄というべき者であったということであります。
 そして本作において、彼が事ある毎に涙を流す感激屋の泣き虫として描かれていたからこそ、彼の決意は、彼の行動は、より一層尊いものとして、こちらの胸を打つのです。


 そして成の想いを受けて、ついに、真に「龍帥の翼」たることを誓った張良。前の巻の紹介とほとんど同じ文句の繰り返しになってしまい恐縮ですが、ある意味ここからが本当の物語の始まり――そう言ってもよいのかもしれません。



 
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