久我 有加『獣の牢番 妖怪科學研究所』 合間の時代、合間の土地に起きた妖怪事件
日本が二つの戦争を経験した明治時代末期、関西の山村にいまだ残る妖怪伝説に、妖怪は迷信だと真っ向から否定する妖怪科學研究所の所長と所員+αが挑む物語であります。果たして村から消えた三人の男女の行方は、そしてそれは妖怪の仕業なのか……
日露戦争後の株価暴落の煽りを受けて失職し、職を求めて町を彷徨った末に「妖怪科學研究所」の看板と所員募集の貼り紙を見つけた青年・峯北修。そこで彼は仏頂面が服を着ているような所長・八尋と対面するのでした。
不可思議な事件を科学的に説明することで依頼人の問題を解決しているという八尋。過去のある事件がもとで妖怪などの迷信を徹底的に敵視する態度が八尋に気に入られて、修はあっさりと採用されることになります。
以来、全く物を片づけようとしない八尋に手を焼きつつ、それなりに充実した生活を送ってきた修ですが――ある日、山間の志寿沼村の村長の三男・喜三郎が研究所を訪れます。
先日来三人もの男女が消えたという志寿沼村。しかしその一人が村長の長男だったにもかかわらず、村長をはじめとする村人たちは、これが村で代々祀る妖怪「ゆらさま」の仕業として動こうとしないのでした。
この態度に不審と不満を抱き、八尋に真相を解明してほしいという喜三郎。かくて八尋と修、そして八尋の親友で華族出身の小説家・飯窪の三人は、志寿沼村に向かうのですが、そこで彼らは、迷信を強く信じる村人たちと対峙することに……
明治という文明開化を舞台とする妖怪ものは、その時代に細々と生き残った本物の妖怪たちを描くものと、妖怪を過去の迷信と断じ近代の合理精神で対峙するもの、二種類に大きく分かれるかと思います。
本作は言うまでもなく後者――妖怪科學研究所の看板を掲げながらも(あるいはそれに偽りなく)、妖怪の存在を否定し、その正体を暴かんとする八尋と修(そして野次馬の飯窪)の姿を描く物語であります。
その本作の舞台となるのは、山中に棲むという妖怪「ゆらさま」を畏れ敬う閉鎖的な共同体。そんな村で三人もの男女が行方不明になれば、妖怪の仕業とされるのはある意味当然と言ってもよいかもしれません。
しかし、いかに山深い地といっても、否応なしに新たな文化風物は流れ込んできます。特に徴兵され、二つの戦争で戦うことによって外の世界を知ることとなった若者(この視点にはなるほど、と感心)たちにとっては、妖怪という迷信に縛られることへの反発は決して小さなものではないと言えるでしょう。
本作で描かれるのは、そんな合間の時代、合間の土地に生きる人々の間に起きた事件であり――その真相は、だからこそ皮肉で、そして一層痛ましいものとして、印象に残ります。
そしてまた、そんな事件において、ひたすら迷信を敵視し否定する修と、迷信を否定しつつも同時にその意味を認める八尋という対比が描かれるのは、本作の物語を受け止めるある種のバランス感覚として好感が持てます。
しかし――これはやはり触れないわけにはいかないのですが、八尋と飯窪のキャラクターの既視感が大きすぎるのは、どうにも気になってしまうところであります。
妖怪という存在を理論的に解体していく仏頂面の探偵(役)、マイペースかつエキセントリックな言動の上流階級出身の親友――その造形に、「あの作品」のキャラクターが透けて見えてしまうのは、これはこちらの目の加減ではないと思います。
作者はデビュー二十年近くを数えるBL作家(本作は完全に一般向けですが)とのことで、文章表現やキャラクター描写自体は全く破綻なく楽しめるのですが――このキャラ造形はだけはどうにもひっかかった次第。
上に述べたとおり、物語自体はこの時代と場所を舞台とすることに必然性を持たせた、一種の時代ミステリとして納得がいくものだっただけに、どうにも勿体なく感じてしまった――というのが正直な印象なのです。
(さらに言えば、民俗的な要素がほとんど皆無なために、どのような「妖怪」を代入しても物語が成り立ってしまうのが妖怪好きとしては不満なのですが――これは物語のスタンスからすれば、こちらの我が儘というものなのでしょう)
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