アレクサンドル・デュマ『千霊一霊物語』 大歴史作家が霊魂不滅の怪談集で描いたもの
アレクサンドル・デュマといえば、言うまでもなく一大伝奇作家ですが、本作はその大デュマの未訳の怪奇小説――それもデュマ自身を狂言回しに、ある事件がきっかけで集った人々が、自分が見聞きした奇怪な出来事を語るという、何とも気になる作品であります。
1831年、近くに狩猟に来た際にフォントネ=オ=ローズ市に立ち寄った27歳のデュマ。そこで彼が見たのは、妻を殺したので捕まえてほしいと叫ぶ男の姿でした。
首を斬って殺した妻が、自分を見て喋ったのだと半狂乱の男。検視を担当したロベール医師がその言葉を冷たく否定する一方で、ルドリュ市長は決してあり得ないことではないと語るのでした。
その市長に招かれ、彼の屋敷で他の客たちと食事をともにすることになったデュマ。やがて話題は先ほどの生首の話となり、市長が、そして客たちが、それぞれ自分が見聞きした奇怪な物語を語ることに……
かくて首斬り殺人犯の奇怪な供述の真偽を巡り、市長邸に集った人々がその傍証とも言うべき怪談を一人一人語るという、いわゆる枠物語のスタイルで描かれる本作。
語るのはルドリュ市長とロベール医師のほか、ルノワール士爵、ムール神父、アリエット老、そしてグレゴリスカ夫人と、年齢も性別も、生まれも育ちも全く異なる面々であります。
この、その場に居合わせただけでほとんど全く共通点のない人々が、それぞれ怪談を語るというスタイルは、その関連性のなさが逆に個々の怪談のインパクトを増すものですが――本作でもやはり、いずれも奇妙で恐ろしく、そして手に汗握る物語が語られていくことになります。
革命の最中、ギロチンにかけられた首の意識の研究と、美しき貴族令嬢との恋が残酷な形で交錯するルドリュの物語。
極悪人に死刑判決を下した判事の目に、毎日決まった時間に映る奇怪な者たちの存在を語るロベールの物語。
革命の余勢で民衆が王墓を暴く中、民衆に敬愛された王の屍を冒涜したために祟りを受けた男の姿を描くルノワールの物語。
自分が一度は改悛させた男の末期の願いのため、夜中の処刑場を訪れたことである奇跡を目撃することとなったムールの物語。
自分が療養中に亡くなった夫の髪を巡り、寡婦が出会った優しい怪異を語るアリエットの物語。
そして亡命の最中、カルパチア山中の城で奇妙な囚われ人となり、城の兄弟から求愛されたことから、恐るべき怪魔と遭遇することとなったグレゴリスカ夫人の物語。
……いささか厳しいことを言ってしまえば、それぞれの物語の題材や描かれる怪異そのものは、さまで斬新というわけではなく、結末をある程度予想できるものではあります。
しかしそれだけに終わらせず、時代背景や登場人物たちを巧みに描き、有機的に絡み合わせることで、息もつかせぬ波瀾万丈の物語として成立させているのは、これは大デュマの手腕以外の何物でもないでしょう。
そして本作の真に見事な点は、本作全体を貫く怪異の趣向と、物語の背景となっている時代設定のかかわり合いにこそあると感じます。
本作で語られるうち、特に印象に残るものの一つである、冒頭のルドリュの物語と、その友人であるルノワールの物語。ここに共通するのは、フランス革命のまっただ中の時代を舞台とし、そしてその時代だからこそ起きた怪異を描く点であります。
王侯貴族たちを力で逐って無惨な弾圧を加え、そして彼らが作った社会と文化を破壊することに目を血走らせる革命市民たちの姿――それは怪異以上に恐ろしく感じられるのです。
しかしこの二話に限らず、本作で共通して描かれるのは、死後の生、霊魂の不滅の存在であります。たとえ命が失われたように見えても、決して失われないものがある。後に遺るものがある――その想いがこの舞台設定と重ね合わされた時、浮かび上がってくるものがあるのではないでしょうか。
もっとも、デュマ自身は共和派に近い政治的スタンスであったといいます。それゆえ、そこにあるのは、単純な貴族制賛美や革命批判にとどまるものはなく、むしろ純粋に失われたものへの哀悼と、それらが――たとえ目に見えぬ精神の形であっても――生き続けることへの希望なのではないでしょうか。
それこそが、怪奇小説を描いても変わらぬ歴史小説家としてのデュマの姿勢であり――そしてその彼が、枠小説の形で怪談を描いたことの理由だったのではないかと、私は考えるのです。
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