サックス・ローマー『怪人フー・マンチュー』 その時代が生み出した「敵」の姿
ビルマから帰国した親友・スミスに促され、突然の冒険に巻き込まれた開業医ピートリー。邪悪な企みを巡らす怪人フー・マンチューの野望を阻むべく奔走する二人だが、敵の奸智の前に次々と苦境に陥る。二人の行く先々に現れる謎の美少女・カラマニは敵か味方か!? そして怪人との対決の行方は……
1913年に刊行され一世を風靡した(そして現在少なくとも我が国ではほぼ忘れ去られた感もある)冒険サスペンス――欧米で黄禍論が唱えられた時代に、そのある意味具現化とも言うべき怪人を描いた物語であります。
本作のタイトルロールであるフー・マンチューは、中国からある政治的目的――主人公であるネイランド・スミス曰く白人文明の壊滅――を持ってイギリスに潜入してきた人物。
長身痩躯でいかり肩、猫を思わせる緑色の瞳と切れ長の目が印象的な(後世にフー・マンチュー髭と呼ばれるどじょう髭は原作には登場しないのが面白い)姿を持ち、その頭脳はまさしく悪魔的――古今の科学知識に通じ、無数の配下と莫大な財力を持つ怪人であります。
本作はそんなフー・マンチューの野望を阻むため、ビルマ帰りの英国政府高等弁務官(まあ諜報機関員と考えてよいのでしょう)スミスと、その親友で語り手のピートリーが、中国の真意を知る人々――政治家や宗教家、中国通の学者等々――を抹殺せんとする怪人と攻防戦を繰り広げるというスタイルで展開していくこととなります。
しかしこれが冒頭から終盤まで
スミスがフー・マンチューの狙いを察知するorカラマニに教えられる→ギリギリで犯行を阻むor失敗する→自分たちも危機に陥る→カラマニの助けで難を逃れる
の繰り返しなのには驚かされますが、それでもフー・マンチューの繰り出す様々な暗殺手段の面白さやスピーディーな展開で、それなりに読ませる作品ではあります。
ちなみにカラマニとは、スミスとピートリー(特に後者)の行く先々に現れる謎の美少女。はっきり言ってしまえばフー・マンチューの配下(本人曰く奴隷)なのですが、何故か冒頭からピートリーにベタ惚れで、ことあるごとに助けてくれる――というより彼女がいなかったら二人は何回死んでいるかわからない状態であります。
そして彼女もまた東洋人(の血を引いているキャラ)であるのですが、髪はブロンドで肌は白というのが、まあ何というか……
何はともあれ、色々な意味で通俗的なエンターテインメントである本作ですが、それが一世を風靡したのは、フー・マンチューの存在によるものであることは間違いありません。
直接的な暴力を用いず、奇怪な科学技術(特に生物・化学兵器に類するものを使うのが彼の特徴であります)を用いて「スマート」に悪事を行う神出鬼没の怪人――という造形の面白さはもちろんですが、しかしやはり彼が東洋、それも中国からやって来たというその点が、そのキャラクター性を決定づけているのですから。
冒頭に軽く触れましたが、本作の発表当時は、黄禍論が欧米で叫ばれた――言い換えれば、それが社会に受け容れられる土壌があった時代。そんな中で現れたフー・マンチューは、空想上の存在ではない、現実に存在する(と一部の人々が信じてしまうような)「新たな敵」の姿を提示してみせた、いや提示してしまった点にこそあるのでしょう。
もちろんそこには作者の達者な筆(数少ない邦訳作品である『骨董屋探偵の事件簿』『魔女王の血脈』は、いずれもオリエンタリズムを巧みに取り込みつつ、素直に楽しめる作品でありました)があるのですが、やはり本作の10年ほど前に起きた義和団事件が大きいと言えます。
中国の、それも一種の民間信仰が欧米諸国に対して牙を剥いたこの事件が、当時与えた衝撃は想像に難くありませんが――それが本作の遠景になっていることは間違いないのですから(その証拠にと言うべきか、作中でフー・マンチューに狙われる人物の一人として、北京籠城の生き残りも登場します)。その意味からすれば、その時代ならではの視点を踏まえた、その視点に縛られた本作も、一種の「時代もの」であった――そう感じます。
その設定のみならず、今読んでみれば眉をひそめざるを得ないような差別的な表現(これも今の目で見れば、ちょっと気をつければ容易に避けられるようなものなのですが)もも多く、好事家以外には敢えて薦め難い作品ではありますが……
ちなみにフー・マンチュー、現在では本人が表に出てくることはありませんが、今でもアメコミで活躍している大物東洋人ヴィランの多くに影響を与えていることは間違いところで、やはりその存在の大きさが窺われるところです――というのは蛇足であります。
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