野村胡堂『江戸の紅葵』 二つの顔の快剣士、安政の大獄に挑む
井伊直弼による安政の大獄の真っ只中、各地で捕らえられ、江戸に送られる尊攘の志士を救い出す謎の剣士がいた。去った後に残す朱色の三つ葉葵から、人呼んで「紅葵」――間部下総守配下の剣豪・大場剣十郎の姿を借り、美少女・照江を助手に、江戸の紅葵の活躍は続く。
時々驚かされるのですが、最近は電子書籍で思わぬ作品が刊行されることがあります。本作もそんな作品の一つ――戦前に野村胡堂が雑誌「新少年」に連載した幕末ものの活劇であります。
各地で尊皇攘夷の動きが活発となり、これに対して大老井伊直弼が強権を以て当たっていた頃――どこからともなく現れ、水際だった腕前で幕府に囚われた志士たちを救って去って行く快剣士・紅葵の活躍を描く本作。
敵に回すのが革命派か守旧派かという違いこそあれ、権力から人々を救うヒーロー、「紅」という色と植物がシンボルという点を見ると、やはりバロネス・オルツィの『紅はこべ』を参考にしているのだろうな――と感じざるを得ないのですが、当然ながら、本作独自の趣向が凝らされています。
本作の第1話の冒頭で描かれるのは、尊攘派の学者である桜井月山を連行する大場剣十郎――井伊直弼の下で大獄の直接指揮に当たった間部詮勝配下で一の剣豪――が、月山の弟子のだまし討ちによって討たれる場面。
しかし直後にその死体は忽然と姿を消し、そしてその後も平然と剣十郎は姿を表すのですが――彼の行く先々には紅葵が現れ、月山ら志士を陰ながら救ってみせるのです。
果たしてこの謎は――と、これはこの第1話のうちで判明することなので書いてしまいますが、実は紅葵の正体こそは、剣十郎双子の弟・剣作。赤子のうちに引き離され、水戸の侍に預けられた剣作は、兄と同じ剣豪に育ちながらも、思想は正反対(水戸だから)となり、紅葵として密かに活躍していたのです。
かくて、亡き兄の姿を借りて大場剣十郎と名乗ることとなった剣作は、剣十郎と紅葵の二つの顔を使い分けつつ、月山の娘の照江の手を借り、悪辣な幕吏の陰謀を次々と粉砕していくことに……
というのが基本設定なのですが、戦前の、それも児童文学らしく――というのは失礼な表現ではありますが、本作では尊攘派=善、幕府=悪の図式が固定化した形で描かれることになります。
さらに、紅葵と照江のほか、剣十郎の娘である弥生も二人に洗n――感化されて味方となる辺りもどうなのかなあと思いながら読み進めてみれば、しかしこれが各話趣向を凝らしていて、実に面白いのであります。
序盤こそ頓馬な幕吏の裏をかいて紅葵が志士を救出――とストレートな展開の連続だったのですが、中盤以降にさすがに剣十郎こそが紅葵の正体では? という疑いを周囲から持たれるようになることになり、紅葵もたやすく目的を果たすことはできなくなります(そこでまた、剣十郎と剣作の設定が生きるわけですが……)。
そこから、敵に捕らえられた照江を身分を隠しながら奪還する、あるいは照江が紅葵となって剣十郎(剣作)と対決するなど、物語にバリエーションが膨らんでいくことになるのが本作の面白いところ。
この後も、
・負傷した紅葵が、自分の代わりに照江と弥生、さらに中盤からレギュラー入りの少年志士・五郎丸を動かして志士を救出
・京からやってきた尊攘派の女性使者を江戸に入れるため、三つの渡し場で待つ幕吏の罠をくぐり抜ける
などといったユニークな展開が続き、さらに後半には井伊直弼の右腕・宇津木六之丞(実在の人物)と、彼に雇われた無頼浪人・波戸久楽之助が敵方のレギュラーとして登場することになります。
これに伴い、偽紅葵を仕立て上げたり(これに対する紅葵の策も痛快)、子供たちばかり五人人質にとったりと敵の作戦も巧妙化、ついには「剣十郎」の正体も暴かれて――と、物語は盛り上がっていくことになります。
もちろん繰り返しになりますが、あくまでも児童文学としての一定の枠はあり、あまり期待しすぎるとなーんだ、ということにはなりかねません。
― しかし、やはりこうしてこのように趣向が凝らされ、アタックアンドカウンターアタックの物語が楽しめる内容となっているのは、さすがは野村胡堂――と今更ながらに感心してしまった次第です。
『江戸の紅葵』(野村胡堂 くぇい兄弟社) Amazon
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