天野純希『紅蓮浄土 石山合戦記』(その一) 少女忍びが見た戦場の地獄
織田軍によって家族を皆殺しにされ、本願寺の忍び・護法衆に拾われた千世。信長への復讐と、極楽浄土に行ったと信じる家族との再会のため、護法衆として篤い信仰心と高い戦闘技術を身に着けた千世は、頭の命により派遣された長島で、元武将の商人・大島新左衛門と出会うが……
織田信長と本願寺顕如が十年にわたり繰り広げた石山合戦。本作は副題の通り、この合戦の始まりから結末を描く物語ではありますが、それを一人の忍びの少女・千世をはじめとして様々な者たちの視点から描くことにより、複雑な味わいを醸し出してみせた作品であります。
信長に反抗する勢力への見せしめのため、伊勢の国人であった父をはじめとする家族を皆殺しにされた少女・千世。本願寺の忍び・護法衆の頭・如雲に拾われた彼女は、仲間同士血で血を洗う修行の末に持って生まれた戦闘の才を開花させ、いつか極楽浄土に行った家族と再会するのを夢見て、苛烈な忍びとしての日々を送るようになります。
しかし本願寺と信長の合戦は熾烈を極め、任務で派遣された比叡山や長島で信長が作り出した地獄を見た末に、さらに人間の感情を捨て、戦闘機械じみた存在と化していく千世。そんな中、越前での任務で思いもよらぬ人物と対峙することとなった彼女は……
というあらすじを見れば、本作はいわゆる戦闘少女もの、すなわち時代と舞台が本作と一部重なる、同じ作者の『剣風の結衣』(旧題『風吹く谷の守人』)のような作品――苛烈な過去と、類まれた人殺しの才を持つ少女が、自らの過去と対峙し、それを乗り越えて人間性を獲得していくという物語のように感じられるかもしれません。
その印象は決して間違いではありませんが、しかしそれはあくまでも本作の要素の一つである、というのが正しいでしょう。冒頭で述べたように、彼女は、石山合戦という戦いを見つめる視点の一つではあるものの、唯一というわけではないのですから。
そして本作において千世と並んで大きな――時に彼女以上の位置を占めるのが、大島
新左衛門親崇という男であります。
元々は阿波三好家の一門であり、武将として三好家の隆盛に貢献した新左衛門。しかし三好家の内訌の中で父と妻と子を無惨な形で失った彼は、放浪の末に長島に移り住み、商人として暮らす中で、本願寺と信長との戦いに巻き込まれることになります。
「生きる」という妻との約束を果たすために日々を送ってきたところに始まったこの合戦。自分たちの欲と保身のため、信者たちを駒として使って顧みない本願寺の坊官たちに反発を覚えながらも、武将としての経験を活かし、彼は長島を守る軍の一端を担うのであります。
このようにして、石山合戦の中でも激戦として知られる長島一向一揆の中で力を振るうこととなった新左衛門。この長島で、新左衛門と千世は出会うのですが――忍びといくさ人という立場の違い以上に、この二人は石山合戦に対して、そして本願寺に対して大きく異なる態度を見せます。
すなわち千世が本願寺の教えを一心に守り、極楽浄土に行くために戦うのに対し、新左衛門は本願寺のやり方に違和感を抱きつつも、それでもただ生き延びるために戦う――そんな二人の姿は、この合戦に本願寺側から参加した者たちの、それぞれある種の典型と言えるかもしれません。
確かに石山合戦には、信長の圧力に対して本願寺が信仰を守るために立ち上がった側面があります。しかしそれだからといって、信長が悪で本願寺が善と、単純に割り切れるわけではないことは言うまでもありません。
いや本作は、石山合戦における坊官たちの振る舞いの方に、むしろ強く厳しい視点を向けている印象すらあるのです(それは先述の『剣風の結衣』や『信長、天が誅する』に描かれた本願寺像と共通する、作者の姿勢でもあるといえるでしょう)。
そんな中で、本願寺に盲目的に従って人を殺す千世と、信仰と生活のためにやむなく戦う新左衛門の姿は、その石山合戦における本願寺側の、坊官――すなわち、史実の表面上に現れる本願寺の立場――以外の立場を代表するものであり、その複層的な視点が、本作を歴史小説として、魅力的なものとしていると感じられるのです。
しかし――長くなりますので次回に続きます。
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