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2020.08.11

天野純希『紅蓮浄土 石山合戦記』(その二) 生き抜いた果てに見る浄土の姿

 本願寺と織田信長の間に繰り広げられた石山合戦を、一人の忍びの少女・千世と、今は商人のいくさ人・大島新左衛門の視点を中心に描く『紅蓮浄土』の紹介の後編であります。二人の視点を通じて、本願寺の姿を客観的に、いやむしろ批判的に描く本作ですが、しかし……

 しかし、浄土真宗を信じる人々が拠り所とする本願寺が、欲と保身にまみれた存在(もちろん本作では、下間頼廉のように、それとはまた異なる立場の本願寺の人間の姿もまた描くのですが)であるとすれば、そこに寄せられた人々の想いは――すなわち信仰は、無意味な、あるいは有害なものに過ぎないのでしょうか。所詮は乱世において弱者が縋る幻、強者が用いる方便に過ぎないのでしょうか。

 本作はこうした疑問に対して明確に否を突きつけ――そして信仰の意味を示すのであります。戦国という乱世、いやいつの時代であっても、弱い立場に置かれ苦しみながら生きる者たち、自力では救いを得られず他者を頼らざるを得ない者たちにとって、信仰が持つ意味を。
 たとえが想いが歪められ、利用されることがあっても、その意味が失われ、否定されることはない――本作の終盤の展開は、それを強く高らかに謳い上げるのです。

 そしてもう一つ、人が他者に利用されることなく――すなわち信仰に耽溺することなく――自分自身として生きるために必要な生き方もまた。


 ……などと申し上げれば、本作は何やら抹香臭く、説教っぽい物語と感じられるかもしれませんが――しかしこの終盤の展開は、それとは正反対の、むしろ凄まじいまでのエンターテインメント性を持った盛り上がりで以て描かれることになります。

 巨大な力のぶつかり合いの中で膨れ上がっていく犠牲。その合戦が泥沼に向かう中、これ以上、戦で無用の人死にを出したくない――そんな想いを胸に、たとえ微力であっても生きることを諦めず、奔走する人々。
 しかしそんな人々の決死の努力が、恩讐を超えた想いがまさに実を結ぼうとした時に、それを水泡に帰すような動きが現れることになります。

 やはり結局は弱き者たちの努力は無駄なのか、人は歴史に――強者に流されて生きるしかないのか?
 否、断じて否! といわんばかりに、そこから展開される最終作戦。千世や新左衛門、その他の物語を彩る人々――それぞれのドラマが一点に集約され、歴史から半歩踏み出した形で繰り広げられる姿から生まれるカタルシスは必見の一言であります。
(出番はあまり多くないものの、ここぞというところで最高の行動を取ってくれるあのキャラクターがまた……)


 作者は元々、歴史小説としての史実の描写とエンターテイメント性のさじ加減が絶妙な作家であります。それはファンとして百も承知ではありましたが――しかし本作でこれほどエンターテイメント度の高い展開が用意されているとは、全く予想していなかっただけに、やられた! という嬉しい裏切りを味わった気分であります。

 題材的に決して軽いものではない――それどころか、悲惨な人の死が無数に描かれる物語ではあります。
 しかしそれだけに終わらない、石山合戦の中で生き抜いた人々を描く物語として、そんな人々にとって信仰の意味を描く物語として、自分が自分であるために戦う者たちを描く物語として――本作は、数多くの魅力を持つ物語であります。

 そして結末において千世が見るもの――それは、そんな物語を締めくくるに相応しい極楽浄土の姿として、強く心に残るのであります。


 それにしても――史実の大島新左衛門のその後を知れば、ただ天を仰ぐしかありません。これもまた、生きること、生き抜いたことの帰結の一つなのでしょうか。


『紅蓮浄土 石山合戦記』(天野純希 KADOKAWA) Amazon

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